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〈鎌倉殿の13人〉特別コラム「木曾義仲の嫡男・義高は、下野国で生き延びた!?かもしれない!!」

 


【木曾義仲の嫡男・義高は、下野国で生き延びた!?かもしれない!!】



NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が面白い。

今までの大河ドラマにはない表現とテンポは、それがイマドキの時代劇なのかもしれない。

その展開の中で、菅田将暉が演じる異質な義経の存在や歌舞伎役者の市川染五郎演じる眉目秀麗な木曽義高など、若者から年配まで、特に女性の人気を盛り上げる脚本が三谷幸喜の上手さなのかもしれない。


さて、その市川染五郎演じる木曽義高の話である。

木曽義高=本姓は「源義高」という、れっきとした源氏の血族の若武者である。


父は、平安時代末期の河内源氏の流れを汲む信濃源氏の武将で、人気の高い木曽義仲である。

そして、この「よしたか」という名が、その後の逸話につながるので、要注目である。

治承4年1180年、以仁王の令旨に応えて信濃で挙兵した木曾義仲は、信濃国を中心に勢力を広げ、同じ源氏の惣領である源頼朝と対立していく。


そこで北条義時などが仲介に入り、義仲が11歳の嫡子(婚姻中の夫婦の間に生まれた子供)義高を人質として鎌倉へ差し出すことで、両者の和議が成立、義高は頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った。


寿永2年1183年、父・木曾義仲は平氏を破って京の都に入った。

平氏は、天皇と三種の神器を奉じて西国に都落ちした。入京した義仲は京を治めようとするが、配下の武士の狼藉などがあり、京を収めることに失敗し、後白河法皇とも対立してしまった。頼朝は後白河法皇と通じ、京に源範頼と源義経を代官とした義仲追討軍を派遣し、寿永3年1184年1月義仲は討たれた。


義仲の人質として鎌倉の源頼朝の元にいた義高は、父・義仲が討たれたことにより人質としての役目をなさなくなり、頼朝は義高を誅殺しようとする。そのことを知った義高の婚約者の大姫は、義高を密かに逃がそうと画策、義高の側近の海野幸氏(うんの ゆきうじ)が義高と入れ替わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだした。大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出したといわれる。しかし夜になって事が露見し、激怒した頼朝は軍兵を派遣して義高を討ち取るよう命じ、義高は武蔵国で捕らえられ討たれたといわれている。



享年12歳。


義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ、病床に伏したという。大姫の母で頼朝の正室である政子は、「義高を討ったために大姫が病になってしまった」と怒ったといわれる。



しかし、話はこれで終わりにはならない。これからが日本特有の逸話となっていく。

下野国佐野に岩崎義基(いわさきよしたか)という武士がいた。

伝承によると、鎌倉から逃げて来た木曽義高を、『藤原秀郷』の子孫で下野佐野氏の初代当主・佐野基綱が、名を「岩崎義基」と改めさせかくまったという。


義高=義基、共に「よしたか」と読むところがポイントである。


この説の信憑性はともかく、当時の時代背景をイメージする武士のエピソードとしては大変面白い。

危険人物をかくまうということは、鎌倉御家人として重要な立場にいた佐野基綱としては、あまりにも大胆で無防備すぎる行動だろう。そのくらい岩崎義基という人物が魅力的だったのか、義基(=木曾義高)の父である木曽義仲に強く想いを寄せていたのか・・・



武士が生まれて以来、各時代・各地域で、「伝説の・・・」「悲劇の・・・」といわれる武士は数多い。日本人らしい敗者や弱者を優しくみつめる心情が生んだ伝説なのかもしれない。

岩崎義基もそんな一人である。



もちろん、これらの説は、他の史料との整合性や比較、裏付けが必要であるが・・・、

佐野市吉水の興聖寺城(清水城)は、佐野国綱が岩崎義基のために築いたといわれている。

佐野市山形町の御所之入と呼ばれる地域に義基と妻の供養塔とされる2基の五輪塔がある。







2022年4月16日

文 岡田 康男


 

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