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〈鎌倉殿の13人〉特別コラム「源平合戦の名場面の一つ「屋島の扇の的」での活躍・・・那須与一」

 


【源平合戦の名場面の一つ「屋島の扇の的」での活躍・・・那須与一】



NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も、いよいよ源平合戦のヤマ場に突入!

鎌倉幕府の成立も見えてきましたね。


以仁王の令旨から始まった約2年にわたる源平合戦は、現代まで伝えられている「源平盛衰記」や「平家物語」などの物語集にも詳しく書き残された戦いで、武家政権の成立の向かっていく日本の一大転換を目指した戦いといえるでしょう。


その源平合戦の戦いのヤマ場の一つが「屋島の戦い」で、中でも「扇の的」の名場面に登場するのが、下野国の名武将「那須与一」です。


那須氏は、藤原北家道長の子、藤原長家の孫・資家(すけいえ)が、藤原秀郷の五世の孫・公光の養子となったのを祖とし、六代後の資隆(与一の父)が那須氏の初代となった藤原秀郷直系の名門氏族です。与一はその嫡子で二代目の当主で、居城である神田城(栃木県那須郡那珂川町)で生まれました。




はじめ宗隆と名乗り、家督を相続した後は、父の名の資隆を継いだといわれます。

系図によると兄が多く、与一というのは、十余る一、つまり十一男を示す通称で、名前ではありません。


兄の一人、十郎為隆を除く9人がみな平氏方に付き、為隆も後に罪を犯したため、与一が十一男でありながら那須氏を継ぐ事になりました。その後、鎌倉の時代になって、平家方に付いて各地に逃亡していた兄達を許し領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いたといわれています。


幼い頃から弓が上手く、弓の腕前を上げようと修行を過ぎたため左右で腕の長さが変わってしまったとも、兄達の前でその腕前を披露して父の資隆を驚嘆させたといわれています。

伝承によると、治承4年1180年、那須岳で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た源義経と出会い、父の資隆が兄の為隆と宗隆(与一)を源氏方に従軍させる約束を交わしたといわれています。


与一を有名にしたのは、元暦2年1185年源平合戦の「屋島の戦い」で、平氏の軍船に掲げられた扇の的を射落とす功績を挙げたからで、その後頼朝から恩賞として荘園をもらっています。

生没年からみると、「屋島の戦い」の時は15~6歳、亡くなったのは20歳前後と、若くして活躍し早逝したと思われます。


与一は、この「屋島の戦いの扇の的」逸話以外のことはあまり知られていませんが、これで名を残したことは確かで、那須氏の当主の通称は代々「那須太郎」でしたが、江戸時代以降の那須資景など那須氏の歴代当主は、通称として「那須与一」を称するようになります。それは、この与一の功績と名声にあやかってのことといわれています。


平家物語・源平盛衰記の名場面として知られる「扇の的」。後世この物語を読んだ人たちは、この与一の活躍に興奮したことでしょう。


この話は、歌舞伎や能、謡曲などを通して後世にも伝えられ、永く現代にまで演じられています。



▼屋島の段 平家物語-抄訳(2022年5月2日)




▼旅ブログ「那須与一ゆかりの神社と伝承館へ行ってみた!」(画像をクリック)




▼那須与一については図鑑にてご紹介♪







2022年5月2日

文 岡田 康男


 

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