〈鎌倉殿の13人〉特別コラム「源頼朝にとってラッキーだった?2つの失敗」
【源頼朝にとってラッキーだった?2つの失敗】
ラッキーな失敗 その1
<源義経の失敗>
「どうして兄はわかってくれないのか」
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も前半のヤマ場、源平合戦が終わり、義経の悲劇的な最期に心打たれた方も多いでしょう。
源義経は、治承4年1180年、兄・源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、その挙兵に応じて頼朝配下に加わりました。源平の合戦では、平氏を、一ノ谷、屋島、壇ノ浦と追い詰め、実戦部隊の指揮官として平家滅亡に大きな戦功を立てました。
源平合戦で源氏が勝利し平家が滅亡した後、義経は、頼朝の推挙を経ずに検非違使(けびいし)、左衛門尉(さえもんのじょう)に任官されました。この後白河上皇に接近した行動から、徐々に兄頼朝と不和となっていきます。
結果、叔父の源行家と組んで頼朝に反逆を企てましたが、結果は敗北でした。
文治元年1185年、源頼朝は、義経追討の院宣を後白河法皇から出させました。このため義経は西国の寺社を転転としていましたが、文治3年1187年2月、藤原秀衡を頼って奥州平泉に入りました。
この時期、日本には鎌倉幕府、京の朝廷、それに奥州藤原氏という3つの政権がありました。そのうちの一つである平泉は、かつて義経を育ててくれた藤原秀衡の本拠地で、奥州藤原三代が築いた雅な文化都市であった。奥州藤原氏の当主・秀衡は、義経を歓迎しました。義経と秀衡の二人は旧知の間柄なのでした。
秀衡は、藤原の家督を継いだ嫡子の泰衡と、対立していた庶兄の長男・国衡との融和を説き、二人が義経を大将軍として守り立て、三人が結束して頼朝に当たるようにと命じました。天才的な戦術家の義経が奥州の強兵を率いれば、必ずや鎌倉に対抗できると考えたのでした。そして三人に後事を託すと、同年10月に病没しました。
文治4年1188年、義経の奥州潜伏が発覚すると、頼朝は泰衡へ義経討伐の命令を出しました。
義経は最後まで、兄・頼朝の考えを理解できなかったのではないでしょうか?
「どうして兄はわかってくれないのか?」
否、見方を変えれば、義経はなぜ兄・頼朝を理解できなかったのでしょうか?
義経悲劇の最大のポイントは、この義経の行動が失敗だったのではないでしょうか。
ラッキーな失敗 その2
<藤原泰衡の失敗>
「先手を打って、義経を討ってしまおう」
2つ目の失敗は、奥州藤原氏の四代目当主・泰衡の行動です。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、どのように語られるか楽しみなポイントです。
頼朝からの圧力が強まり、藤原氏四代目の泰衡は、このまま義経をかくまうと朝廷や鎌倉の敵になりかねない。「先手を打って義経を討ってしまおう。そうすれば、鎌倉は我々を討つ事はないだろう。」と泰衡は考えたのでしょうか。
文治5年1189年閏4月30日、泰衡は、数百騎の軍勢で衣川の義経の館を襲いました。義経は、館に火をつけ妻と4歳の娘と共に自害、31才の波乱の人生の幕を閉じました。
文治5年1189年8月22日、頼朝は義経をかくまったことを理由に、28万の大軍を藤原氏討伐のために平泉へ進攻させました。
泰衡は、戦わずに北上して比内の家臣である河田次郎を頼って逃れました。「平泉を戦火で焼失させるよりも、我が身を捨てて平泉を守ろう。自分が腰抜けの汚名を蒙るのは構わない」と考えたのかもしれません。
同年年9月3日、河田次郎は鎌倉方に寝返り、逆に泰衡を討つと、その首を頼朝の本陣に持参しました。
泰衡は、「敵の将・泰衡の首を差し出すのだから、頼朝は喜んで自分を取り立てるだろう」と考えたのでしょうが、頼朝の方が一枚上手、河田に対し「旧恩を忘れる振る舞い」として斬首の罪に処し、泰衡の首の眉間に、八寸の釘を打ちつけて柱に掛け晒したといいます。後に、泰衡の首は平泉に戻され、黒漆の首桶に入れられて、中尊寺金色堂に納められました。
泰衡は、奥州藤原氏の栄華を終焉させた不肖の息子といわれます。
この泰衡の考えと行動が、奥州藤原氏を終焉させた最大の失敗といえるからでしょう。
では、狡猾な頼朝に対してどういう対し方をとれば良かったのか?
こっちが思うほど相手はこっちの都合を考えてはくれないのです。
自分に取って代わるような勢力は、討てる時に討つのが、政権を狙う者の鉄則なのです。
平安の時代から武士の世に向かう変革の時代にあって、その波にも、運にも乗れなかった後継とすれば、自分の汚名と引き換えに、中尊寺や毛越寺、無量光院などが建ち並ぶ黄金楽土の平泉を守るのが、最後のプライドだったのかもしれません。
ここに奥州で栄華を誇った名門藤原氏は滅亡し、頼朝の全国統一がほぼ完成したといえるでしょう。
▼奥州藤原氏の始祖「藤原清衡」について
2022年5月28日
文 岡田 康男
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