〈鎌倉殿の13人〉特別コラム「奥州藤原氏の栄華と夢の跡」
【松尾芭蕉の思い】
夏草や兵どもが夢の跡
(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
ほとんどの日本人が知っている松尾芭蕉「奥の細道」の一句です。
意味を現代語に訳すと、 「今や夏草が生い茂るばかりだが、ここはかつて武士達が栄誉を求めて奮戦した跡地で、昔の栄華はひと時の夢となってしまったのだなあ」
という、芭蕉の思いが現れた一句で、元禄2年1689年5月13日(新暦でいうと6月29日)の夏、芭蕉46歳の頃奥の細道として知られる旅の途中、岩手県平泉町で詠まれたといいます。
平泉は平安時代に奥州藤原氏が繁栄を築いた地として知られています。
それから約500年後の江戸の中期、芭蕉がこの平泉を訪れ跡地を見渡すと、かつての藤原家の栄華の痕跡は、あとかたもなかったのです。句中の「兵ども」とは、源義経やその家来、平泉で栄華を誇った奥州藤原氏の一族のことで、「夢の跡」は、全てが過ぎ去り何もない風景のことで、ただ夏草が青く生い茂る風景を見て、「全ては短い夢のようだ」と人の世の儚さを思ったのかもしれません。
芭蕉は、源平の盛衰について描かれた『平家物語』にも詳しかったようで、悲劇のヒーロー義経に対しても深い哀惜の念を感じていたのでしょう。
【奥州藤原氏とは】
平安時代の中期から後期にかけての奥州(今の東北地方)は、陸奥国を安倍氏が、出羽国を清原氏が支配していました。
永承6年1051年、朝廷から派遣された陸奥守と安倍氏が対立したため前九年の役が起こり、朝廷側が勝利して安倍氏は滅び、その後は、清原氏が出羽国と陸奥国の両国を支配するようになりました。
永保3年1083年に清原氏の内部で家督争いが起こり、それがきっかけとなって後三年の役がはじまります。その時朝廷の支援を受けて勝者となったのが清原清衡で、のちに母の有加一乃末陪(ありかいちのまえ)の出身である「藤原」の姓を名乗ります。
この藤原清衡が奥州藤原氏の初代として奥州全体を支配するようになったのです。
<奥州藤原氏と信仰>
奥州藤原氏は、仏教に深く帰依したようです。
清衡は平泉の地に、仏の国、仏の世界、とりわけ理想郷ともいえる浄土を目指し、多くの仏教建築や庭園を造営し、数えきれないほどの堂塔や庭園を築きました。
二代目の基衡は、清衡が築いた仏教都市をさらに発展させました。代表的なのは毛越寺(もうつじ/もうつうじ)の建立で、これは中尊寺に匹敵する立派な建築だったといわれています。
三代目の秀衡は、妻の実家の縁と財力を生かし、中央貴族へ金や馬を献上したり寺社へ寄進したりして、嘉応2年1170年、従五位下で武士の最高位である鎮守府将軍に任ぜられました。
初代清衡と二代基衡は、押領使という官職についていましたが、この押領使は、最高位といえる官職ではありませんでした。だからこそ三代秀衡の鎮守府将軍への就任は意義が大きく、これで名実ともに奥州の支配者と認められたことになります。さらに秀衡は、養和元年1181年、従五位上・陸奥の国司にも任じられました。
秀衡は、祖父・清衡や父・基衡と同じく都市計画を進め無量光院などを建立しました。無量光院は宇治の平等院鳳凰堂を模して造られ、その規模は平等院よりも大きかったといわれています。
加えて、京や他の地域で争いがあっても常に中立を貫き通し、奥州の平和と独立性を保ち続けました。
まさに奥州藤原氏全盛期として、一族の繁栄と平泉の平和維持に尽力したのです。
奥州藤原氏の一族は、平泉で映画の時代を築くまでは相次ぐ戦乱で、多くの命を失ってきました。その命を慰め成仏させ、平和な社会を築きたかったのではないでしょうか。
<藤原四代のミイラと蓮の花>
今でも平泉に残り多くの参拝者が訪れている中尊寺金色堂には、初代清衡、二代基衡、三代秀衡のミイラ3体と、泰衡の首のミイラが祀られています。
昭和25年1950年、中尊寺金色堂の調査が行われました。
その調査で、泰衡の首には縫合された跡があり、手厚く葬られていたことがわかりました。
また泰衡の首桶から80粒ほどの蓮の種が見つかりました。
その種は、1998年平成10年、800年の時を超えて発芽し、開花し、今では「中尊寺ハス」として見ることができるということです。
2022年6月3日
文 岡田 康男
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