top of page
検索

【会員寄稿コラム】藤原秀郷流を訪ねて……《1》人物伝承と繋がり(2024年10月18日更新)

2024年10月9日

栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会

佐野支部 永島正光



三騎神社の祭神

『足利又太郎忠綱』『足利七郎有綱』『小野寺禅師通綱』



10月5日の「歴史散歩 佐野編」あいにくの小雨の中でしたが、参加者と共に楽しませて頂きました。

内容についてはニュース&トピックス欄でご覧下さい。




ここでは登場した3名の坂東武士の伝承、エピソード、繋がりなどにスポットを当てたいと思います。


三騎神社の祭神(諸説あり)足利又太郎忠綱、足利七郎有綱(鞍掛神社でも祭神)、小野寺禅師通綱です。

祭神と言えば○○のミコトや○○ヒメなど古事記や日本書紀に登場する神様が多い中、実存した祭神は少ないようです。

しかし、唐沢山神社の祭神は藤原秀郷、そしてその子孫を祀った神社が佐野市には6社あります。


3人の活躍した時代は平安時代末期から鎌倉時代初期ですので、この頃の関係したいくつかの合戦から探ってみましょう。



其の一

宇治川の戦い1180年(治承4年)源平合戦の第一幕、俗に言う橋合戦です。

打倒平氏の源氏(以仁王、源三位頼政)VS清盛健在平氏です。秀郷流(淵名大夫兼行系)の足利俊綱、忠綱父子の嫡流家は一族をあげて平氏方で参戦します。


特に17才の忠綱は橋の壊された宇治川で渡海をためらう武士達を尻目に「者共続け!」と馬筏を駆使し、一族300人を従えて先陣を切り平氏勝利に大貢献しました。



ここで忠綱が着用していたのが、伝説の「避来矢」の鎧、俵藤太秀郷が百足退治の恩賞で龍神から頂いた物です。



もう一つ打倒平氏の旗頭以仁王(後白河天皇の第三皇子)が挙兵したのが近江の園城寺?そう、三井寺です。

この寺にある梵鐘は、これもまた、俵藤太秀郷が龍神から頂いき、三井寺に寄進したもの、秀郷、秀郷で繋がってきましたが、果たして、足利忠綱は知っていたのでしょうか?





其のニ

野木宮合戦1183年(寿永ニ年)

先の宇治川の戦いで大活躍の足利忠綱は平清盛に恩賞をおねだり、そして独り占めします。

そりゃないよと怒った秀郷流一門衆16人が平清盛に訴えるとあっけなく恩賞は取り消しとなってしまい、忠綱は「午介」(ごすけ)などと呼ばれ嘲笑されたようです。

因みに午介とは今で言えば、群馬県知事をおねだりし任命されたが2時間後に解任されたとでも言うことでしょう。


この一件で藤姓足利嫡流家と一門衆の間に軋轢が生まれ野木宮合戦へ


常陸の国にいた志田義広(源頼朝の叔父)は1183年2月頼朝に反旗を翻します。 

頼朝側には関東の秀郷流小山氏系など名だたる武士が加わりますが、平氏と主従関係にあり、ライバル小山氏が頼朝側についたこともあり、足利俊綱、忠綱父子嫡流家は志田義広につきます。

ところが、足利有綱を筆頭に一門衆は頼朝側についてしまい、志田義広、足利俊綱、忠綱父子は敗れ、敗走となってしまいました。

その後、俊綱は重臣桐生六郎の裏切りより殺害され、忠綱は源姓足利義兼預かり(諸説あり)の後に殺害され、これで藤姓足利嫡流家は滅亡してしまいます。




其の三

赤見山の戦い文治元年(1185年)

滅亡した藤姓足利氏、俊綱、忠綱の領地は足利義兼(源姓)へ

そんな経緯から領地の利権などで藤姓足利有綱は義兼と赤見山で戦となりますが、有綱は目を弓矢で負傷し敗走となります。



有綱は敗走の途中矢を抜き目を洗いましたが、老齢もあり力尽きて馬から鞍を下ろし腰をかけ自害したと言う伝承が伝わっています。遺体はこの地に葬られ半年後に地元住民により創建されたのがこの鞍掛神社です。


建久ニ年(1191年)子孫の佐野成綱はこの戸室の地に「大悲山平等院大安寺」を建立し菩提を弔いました。

大永三年(1523年)尊永和尚が栃木市千塚(旧戸矢子)に移転、なぜ?

戸矢子に愛着があったのではと勝手に解釈、また、この年は、宇都宮忠綱VS皆川宗成+小山、結城、壬生が激闘を繰り広げた、河原田合戦があり、戦場は目と鼻の先「この地は我が子孫の領地なるぞ」有綱の思いを表しているようにも見えます。



其の四

承久の乱、承久三年(1221年)

朝廷(後鳥羽上皇)VS鎌倉幕府(北条義時)、この戦いの時にはもう忠綱、有綱はいませんが、68歳の小野寺通綱、佐野基綱など秀郷流の坂東武士が鎌倉側として参戦し、沢山の軍功たて勝利に貢献しています。

しかし、通綱は討ち死、その首は同行した息子が塩漬けにして故郷、下野岩舟まで持ち帰ったそうです。

ここで朝廷側の実質総大将に藤原秀康と言う武士がいました(大河、鎌倉殿…にも出てました)が、なんとこの人も秀郷流(足利成行の弟大屋孝綱系)です。以外なところに秀郷の子孫がいて、びっくりきました。


鎌倉時代初期、坂東に限らず秀郷流の武士は挙兵時から頼朝に従い沢山の軍功をあげ、全国に領地を賜りました。

三騎神社の足利忠綱、足利有綱、小野寺通綱、決して喜べるような最期ではありませんが、彼等が残したと言われるもの、伝承、民話など佐野付近には沢山あります。


真偽のほどは別として、先人達が残してくれた郷土のプレゼントを引き継ぎ、後世に伝えて行こうと思うこの頃です。





Comments


■ カテゴリー別

おすすめページ

bottom of page