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【会員寄稿コラム】藤原秀郷流を訪ねて……《2》名門結城家の終焉と晴朝の執念(2024年11月13日更新)

2024年11月2日

栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会

佐野支部 永島正光




結城家と徳川家

今日の主役は、結城晴朝(結城家実質最後の当主)、結城秀康(徳川家康二男、秀吉の養子から結城家へ)、そして援軍はこの二人、水谷正村(蟠龍斎、結城家重臣)、皆川広照(下野皆川城城主)です。


結城氏、さて知名度はどのくらいでしょう?大河ドラマをこよなく愛する人達は秀康、晴朝、朝光辺りはご存知でしょうか、氏朝、持朝、宗弘となるとかなり歴史通かも知れません。


徳川家康の二男秀康はなぜ、そして、どんな経緯で結城家の養子になったのでしょうか。

ご存知、子宝に恵まれなかった豊臣秀吉は親族、家臣、あちらこちらから沢山養子を迎えます。秀次(実姉の子)、秀勝(織田信長四男)、秀秋(妻おね兄の子)など、そして秀康。しかし秀康は養子と言うより人質と言った方が良いかも知れません。

ところが、1589年実子「棄(すて)」(後の鶴松、秀頼の兄)が生まれると状況は一変します。


余談ですが、この誕生祝いには秀吉の重臣、蒲生氏郷(秀郷子孫で崇拝者)は俵藤太(藤原秀郷)が大百足退治に使った矢の根(鉄製の鏃)を刀に仕立て直して贈ったとのエピソードもあります。



養子の秀康、秀秋は再び養子にだされます、秀秋は毛利家重臣小早川家、そして秀康は下総結城家へ。

当時の結城家17代目当主は晴朝、彼には実子がおらず、すでに宇都宮氏より朝勝を養子としていましたが、「小田原北条氏亡きあと、宇都宮、佐竹、との誼より徳川と結んだ方が結城家は……」と考えていたようです。

1590年、晴朝は秀吉が小田原征伐後の奥州仕置で宇都宮に滞在した際の接待役を任されました。その時に秀康の養子縁組を懇願し、その年のうちに先の養子朝勝を離縁し宇都宮へ返して秀康を、迎えました。




これ、なんか上手く行き過ぎのような気がしませんか。


秀吉は秀康を結城家の養子にする話を実父である家康には事前に話をして意向も聞いているはずです。家康にとっても武勇の誉れ高い秀康は、近くにいるのに越したことはありせん。いやいや、養子先の結城家は家康から提案したのかも知れません。


実はそれ以前から、家康には結城家に関わる重要な人物が二人いました。皆川広照と水谷正村です。ややこしいですが、広照の母親は正村の妹、晴朝の妻は正村の娘、とにかく身内で、そして皆、藤原秀郷の子孫です。



1582年3月に武田氏を滅ぼした信長は5月に家康を京都にて饗しますが、6月本能寺の変で自害してしまいます。家康は堺見物から伊賀越え、三河帰郷そして、天正壬午の戦いへ(甲斐にて対北条氏直)と進みますが、この戦いに広照と正村は家康側で参加しているんです、しかも広照は京都上洛から家康に同行し、信長にも謁見しています、正村も同じかも知れません。こんな緊迫した時期に一緒にいたのですから、より親密な関係に、なってその後も継続ていたと思います。

1597年、秀吉により盟友の宇都宮国綱が突然改易取り潰し、佐竹義宣も?こちらは石田三成のとりなしでなんとか持ちこたえたが…危ない危ない、結城家は秀康様々、だったかも知れません。


そして、関ヶ原から江戸時代へ

皆川広照と水谷勝俊(正村の弟)は大名になりますが佐竹義宣は秋田へ減転封(父の鬼義重の嘆願も届かず)となってしまいます。そして、結城秀康はというと、越前へ68万石の大転封、隠居身の晴朝も仕方なく同行します。下総結城城は廃城、領地はしばらく幕府直轄地となりますがここが今日のテーマです。





結城埋蔵金伝説


家康が幕府直轄地にした理由は何だったんでしょう?

結城と言えばそう、「結城紬」、絹(養蚕)です。この利権の独占だったと言われていますが、う〜んそれだけかな?ちがうなぁ〜.


結城埋蔵金伝説(日本三大埋蔵金のひとつ)、現在価値1.8兆円

(諸説あり)これです、これですよ。


秀康の結城家への養子縁組の話に埋蔵金も含めたいろいろな情報の提供や、関係者への取り次ぎなど、家康に大きな貢献をしたのが彼と以前から誼を通じていた皆川広照と水谷正村だった……と勝手な持論です。


晴朝は途中から薄々気づいていたようです。埋蔵金は越前に移る前に秘密裏に隠したといわれ、その場所を示すヒントとなる和歌が金光寺の山門の梁に書かれているそうです。


実際、江戸時代に数回、大正時代にも、発掘した記録が残っています。8代将軍吉宗の時代には、あの大岡忠相が指揮をとって発掘したそうですから財政難もあり、かなり力が入っていたようです……が未だ、見つかっていません。


(旧・結城城址に架かる三日月橋)

「結城城」内(現・茨城県結城市本町にある「城址公園」)の大手口

から本丸跡に向かう空掘にかかる大正6年(1989年)建設の石橋。

この空堀は「結城家埋蔵金」を掘り起こそうとしたあととも言われる。

 


そんな訳で、皆さんのその後です……

皆川広照は家康7男忠輝の付き家老となり75000石に出世しますが、1609年家老不適格として、改易謹慎、その後常陸新治に10000石で復帰。


水谷正村は下館藩初代藩主、1569年勝俊(弟)に家督を譲りますが隠居した後も1598年亡くなるまで活躍しました。水谷家は勝俊、勝隆(備中松山藩に転封)、勝宗と続き、あの猫城主「三十郎」で有名な備中松山城の現存天守閣は勝宗の修築です。


秀康は1601年越前転封後は結城姓は名乗ることは無く、秀康死後、後を継いだ長男忠直は松平姓を名乗り武勇に優れるも素行不良で蟄居、配流へ、家督は弟の忠昌へと続きますが秀康の頃の面影は無くなってしまったようです。


余談ですが、秀康の幼名は於義丸(於義伊)と言われたそうです。オギイとは家康が二男の顔を見て「まるでギギのような子だ」と言ったとか、ギギとはナマズに似た在来淡水魚ですが、見た目が良くない。家康は自分の子なのか?と疑って三歳になるまで会わなかったと言われています。


これ、私が渡良瀬川で釣ったギギです、確かに醜い。ちょっと触ると「ギギ、ギギ」と蛙のような音(鳴く?)をだしします。

400年以上前に家康もこのギギを見ていたんだと思うとなんか不思議な気分になります。





結城晴朝のその後

1607年秀康の、後を継いだ長男忠直は松平姓を名乗り、ここに400年の結城家は断絶となります。実父小山高朝(晴朝は小山家からの養子)、朝勝(宇都宮氏からの養子、後に離縁)と縁を、切ってまで守り抜いた「結城」の所領と家名をあっさりと捨てられてしまった晴朝は失意のうちに1614年越前北ノ庄(下野、中久喜城とも)で亡くなります。


また、亡くなる直前まで、一族の家系図、過去帳、家伝等を編纂して結城にある結城氏ゆかりの寺社に納めていたようで、旧領下総結城、お気に入りの隠居地中久喜城への帰還をずっと願っていたんだと、ちょっとしんみりしてしまいました。そして「埋蔵金は絶対に誰にも渡さないぞ」結城晴朝の執念は今も生き続けているような気がしてなりません。


天保十年(1839年)の水戸徳川家臣団(敗者復活家臣団とか?)名簿の中に「御史番、結城寅寿晴明」なる名前を見つけたました、きっと晴朝の縁者と思いました。



結城朝光(始祖、埋蔵金)、氏朝(結城合戦)、宗弘(白河結城、南朝の雄)、鎌倉時代初期から激動の室町時代の結城家の皆様は次の機会に。



 

結城秀康の図鑑ページはコチラ



皆川広照の図鑑ページはコチラ


 


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