蒲生君平ってどんな人・・・?(2025年1月17日更新)
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こんにちは。
栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会運営事務局の歴史好き、ともえです。
今回は、明日開催のイベント「第12回 歴史さんぽ」に向けて、宇都宮出身の偉人“蒲生君平”について予習をしていこうと思います!
これで明日のイベントがもっと面白くなるかも…?
秀郷の血を引く変わり者
蒲生君平は江戸後期の学者で、秀郷流の血を引く名将・蒲生氏郷の子孫にあたります。
また、「寛政の三奇人」としても有名です。
「寛政の三奇人」とは、林子平、高山彦九郎、蒲生君平の三人の呼称で、いずれも江戸中期、尊皇、外交に特に関心を示した人物です。
幕藩体制動揺期の寛政の頃、憂国・尊皇の言動が世に奇行とみられたところからこう呼ばれています。
宇都宮との関わり
君平は、明和5年(1768年)、宇都宮の新石町(現・小幡一丁目)に生まれ、
6歳の時に、延命院で住職から読み書きを教わり、学問を修めました。
また、寛政5年(1793年)には足利学校の復興に尽力しました。
その後も学者・尊皇思想家として様々な著作を残しますが、文化10年(1813年)、46歳の年に江戸で没しました。
没後は谷中(現・東京都台東区)の臨江時に葬られますが、後に宇都宮の桂林寺に分葬されています。
明治期に入ると、天皇は君平の偉功を追賞され、宇都宮藩知事に命じ当時宇都宮の入口であった南新町の日光街道沿いに石碑を建てました。
さらに、大正6年には「蒲生会」が結成され、神社建立の動きが本格化。大正10年に提出された陸軍大将をはじめとする85名の創建願いを受けて蒲生神社の建設が行われ、大正15年に竣工しました。
「前方後円墳」の名付け親
君平が荒廃した天皇陵の調査・考証についてまとめた著作『山陵志』の中ではじめて、「前方後円墳」という名称が用いられたとされています。
おわりに
蒲生君平について、簡単にですが知ることができました!
明日のイベントでゆかりの地を巡り、彼の足跡を感じられるのが楽しみです。
それでは、また次回のコラムでお会いしましょう。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
ーーーーーーーーーー参考ーーーーーーーーーー
宇都宮の歴史と文化財 HP
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