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【県博テーマ展コラム】その11 結城朝光 頼朝からの拝領の名「宗朝」どこいった?


水野先生の短編コラム

当会顧問の水野拓昌先生にコラムを書いていただきました!



 


栃木県立博物館テーマ展『藤原秀郷とその末裔たち』(2025年2月22日~3月30日)で展示されている『吾妻鏡』は、1180年(治承4年)、小山政光の妻・寒河尼(さんがわに)が源頼朝の宿営地に駆け付ける場面が紹介されています。小山氏がいち早く、頼朝に味方し、小山氏一族の鎌倉時代の繁栄のきっかけになりますが、今回はこの中でいつもスルーされている点をあえてクローズアップします。


 

母と共に隅田宿に馳せ参じた14歳の七郎

 


まず、寒河尼ですが、本名不詳だし、史料もいろいろあります。「寒川尼」でも間違いではなく、「さむかわのあま」「さむかわに」と読んでもいい。どれも正解。また、頼朝の乳母(めのと)でしたが、年齢差は10歳程度なので、家庭教師的、姉的な存在で、古参の乳母を補助して身の回りの世話をするという役目だったような気がします。


『吾妻鏡』1180年10月2日、隅田宿(東京都墨田区)の頼朝のもとに寒河尼が駆け付けます。頼朝は反平家の兵を挙げたものの石橋山の戦いで大敗し、立て直しの最中。そこに寒河尼は末っ子・七郎を連れてきました。後の結城朝光(ともみつ)です。

この時、14歳といい、頼朝は喜んで烏帽子親となり、名を与えます。この場面『吾妻鏡』は「小山七郎宗朝」と明記しています。

ところが、1181年(治承5年)4月には「結城朝光」の名で登場しています。

このへんの事情は「後に改名した」とあっさり解説されることが多いのですが、「頼朝に拝領した名はどこにいったのか」という点は結構重要かと思います。



 

宗朝」+「政光」→「宗政」、「朝光」?

 


まず、頼朝が与えた「宗朝」の名は、誰から取ったものでしょうか?

寒河尼の実家・宇都宮氏の2代・八田宗綱、3代・宇都宮朝綱から1字ずつとも考えられますが、烏帽子親から名の1字を与えたとすれば、「頼朝」の「朝」のはず。では「宗」は?

 飛躍した想像ですが、頼朝とともに挙兵し、戦死した北条宗時の「宗」ではないかと思うのです。宗時は頼朝としては最も頼りにしていた北条氏の嫡男。妻・政子の兄でもあり、頼朝にとって極めて大きな存在だったのではないでしょうか。

そして、ありがたくも、せっかく拝領した名「宗朝」が二度と登場しなかった理由は?

拝領の名を捨てるのは離反を意味しますが、頼朝と結城朝光の関係はこの後、ますます深まっています。史料的根拠はありませんが、父・小山政光が「頼朝様の朝の字が下ではいけない」と気を回し、改名させたとは考えられないでしょうか。この時代にそのようなしきたりがあったかどうか不明で、鎌倉時代には将軍から拝領した字を下にする例もあります。将軍・藤原頼経→北条時頼、将軍・宗尊親王→北条時宗といった例です。


しかし、貴人から拝領した字の上下を気にする感覚があっても不思議ではありません。そこで小山政光は、拝領した「宗」と「朝」を上に、自身の「政」「光」を下にし、「宗政」「朝光」という新たな名をこしらえ、わが子の諱(いみな、実名)にしたのでは? すなわち、五郎「宗政」(長沼宗政)と七郎「朝光」(結城朝光)です。

この時、20歳近くの長沼宗政が元服前とは考えにくいのですが、せっかくなので、小山氏と源氏、頼朝の関係を強める機会と捉えたかもしれません。

小山朝政を含め、長沼宗政、結城朝光の小山三兄弟は頼朝に大いに信頼され、鎌倉幕府の最有力御家人に成長します。頼朝と小山氏の関係はなかなか奥が深いのです。

とはいえ、これはエビデンスのない妄想。異論、別意見は大いにありです。例えば、「小山宗朝」は『吾妻鏡』の誤記との見方もまあまあ現実的かもしれません。

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