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【県博テーマ展コラム】その12 『将門記』誰が書いた?京か坂東か?秀郷との関係は?


水野先生の短編コラム

当会顧問の水野拓昌先生にコラムを書いていただきました!



 


藤原秀郷の最大功績といえば、940年(天慶3年)に平将門の乱を鎮圧したことで、これは乱の経過を記録した『将門記』にも、歴史書である『扶桑略記』などにも書かれています。

ところで、『将門記』は誰が書いたのでしょか? 記録がなく、作者不明としかいいようがなく、いくら考えたところで結論は出ませんが、『将門記』の作者像を追うと、いろいろと想像できることがあります。今回は妄想にお付き合いください。


 

将門を射抜いたのは貞盛の矢?神鏑?

 


冒頭ちらりと紹介しましたが、『扶桑略記』という歴史書があります。国家事業としての歴史書「正史」編纂は『日本書紀』の後、『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』と続き、「六国史」といわれます。その後、国家事業としての歴史書編纂が途絶えた平安時代編纂の私撰歴史書として『日本紀略』34巻、『扶桑略記』30巻などがあり、貴重な史料です。

これら歴史書による将門の乱の状況ですが、『扶桑略記』やその記述を基にした説話集『古事談』では、将門を射抜いたのは平貞盛の矢となっています。秀郷の矢ではないのです。

『古事談』は、貞盛の矢に当たった将門が落馬し、そこに秀郷が駆け寄って将門の首を取ったと書いています。なお、同書の記述は『将門記』と同じ比喩表現が見られ、『扶桑略記』も『将門記』が基になっている可能性があります。


ところが、『将門記』は肝心の部分が違います。「貞盛の矢」が出てきません。「(将門は)いつの間にか神鏑(しんてき)に当たって倒れた」と書かれています。神の鏑矢は流れ矢とも解釈できます。



 

傍観?協力?不自然な秀郷の沈黙

 


『将門記』の特徴として、前半は、将門に同情的で、後半は、将門に批判的な部分もあります。また、将門の動向に詳しい点から関東で書かれたとも思えます。一方で、将門が摂関家当主・藤原忠平に宛てた書状の文面も記述されているため、政権中枢に近い京の人物が関わっている可能性もあります。

また、『将門記』は将門や貞盛の発した言葉や心情が具体的に書かれていて、いかにもドラマ的、創作的。そんなものは本人と側近的人物しか分からないはず。敵味方に分れた将門、貞盛双方の内部情報を取材できる人物を想像してもいいのですが、現実的には、この乱の全体像を把握でき、創作力のある人物ではないでしょうか。いわゆる筆が立つ人物です。漢文ができ、中国の歴史にも通じているので貴族か僧侶ということになります。


そこで『将門記』が書かれたのは、①関東 ②京 ③関東+京(関東で書かれた後に京で加筆されたなど)――の3説が考えられます。

そして、平貞盛に近い人物であれば、『将門記』も「貞盛の矢が将門を射抜いた」と書いたはず。意図的に「貞盛の矢」を隠し、「神鏑」としたとも感じ取れます。

一方、『将門記』には藤原秀郷が最終局面まで登場しません。935年(承平5年)から隣国での戦乱や下野国府襲撃に対する秀郷の沈黙は大いに不自然。傍観していたのか、将門と相互不干渉の協定を結んでいたのか、もしかすると、もっと積極的な協力関係にあったのか。これは秀郷に都合の悪い部分で、あえて隠されている……、こうした想像もできます。


『将門記』の筆者像についての個人的な妄想です。


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