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【県博テーマ展コラム】その13 佐野昌綱 上杉謙信と互角に渡り合う・・・唐沢山城攻防戦


水野先生の短編コラム

当会顧問の水野拓昌先生にコラムを書いていただきました!



 


栃木県立博物館テーマ展『藤原秀郷とその末裔たち』(2025年2月22日~3月30日)では、狩野松栄(かのう・しょうえい)が描いた『佐野昌綱像』(複製)が展示されています。佐野昌綱は戦国時代の唐沢山城主で、上杉謙信と攻防戦を繰り広げました。

佐野昌綱と謙信は1530年(享禄3年)の寅年生まれの同い年。佐野氏は小さな地域を支配する国衆(国人領主)に過ぎませんが、関東七名城の一つ・唐沢山城の堅牢さを十分に生かし、最強の戦国大名・謙信と互角に渡り合ったのです。


 

越後の次に「佐野之地」 謙信の願文

 


「越後の虎」上杉謙信と唐沢山城の関わりでは、1559年(永禄2年)、北条氏政の兵3万5000に攻められた佐野昌綱を救援するため8000の兵で駆け付けた謙信が45騎の手勢で大軍の中を押し通ったという名場面があります。

しかし、これは軍記物『関八州古戦録』のフィクション。

佐野昌綱が謙信に従い、協力関係にあった時期もあるにはありますが、基本的には謙信が唐沢山城を攻め、昌綱が迎え撃つという攻防戦が続きました。

謙信の唐沢山城攻めは10回ともいわれますが、史料から確実なのは5回です。1562年(永禄5年)2月、1563年(永禄6年)4月、1564年(永禄7年)2月、1567年(永禄10年)10月、1570年(永禄13年)1月で、このほか城下を放火したこともあります。

まさにこの5回は昌綱が城主を務めている期間。一方、謙信は幼名「虎千代」から元服後は「長尾景虎」、「上杉政虎」、「上杉輝虎」、「上杉謙信」と改名を重ねていて、唐沢山城を攻めたのは主に「上杉輝虎」の時ですが、ここでは、分かりやすく「謙信」の表記で統一します。

謙信は1566年(永禄9年)5月、願文で「越後、佐野之地、倉内(沼田)之地、厩橋(前橋)之地」の「長久無事」を祈願しています。越後の次に大事なのが佐野だったのです。



 

上杉、北条両巨頭の間でしたたかに

 


上杉謙信はどうしてこんなにしつこかったのでしょうか。

まず、唐沢山城は関東の重要拠点でした。南に関東平野が開け、東山道も通っています。交通の要衝、戦略上の拠点。また、上杉氏の家督とともに関東管領職を受け継いだ謙信としては、関東を席捲する北条氏を野放しにできないというプライド、意地もあります。

一方、上杉と北条のせめぎ合いの最前線に立たされた佐野氏は旗幟鮮明にしにくい事情があります。昌綱は謙信に降伏したり、上杉からの見張り役を城に入れたりしたこともあります。人質も出しました。ただ、謙信は春には越後に戻ってしまうので、このままだと北条の格好の標的になってしまいます。昌綱は面従腹背。隙あらば離反するという謙信にとっては相当厄介な相手となりました。

「上杉輝虎書状」には「佐野小太郎(昌綱)は若輩者で、家中に侫人(悪いやつ)がいて、先年も一子を証人(人質)として差し出しながらも結局出陣しなかった」といった謙信の愚痴があります。

なお、唐沢山城は藤原秀郷の築城伝説がありますが、戦国時代に整備されたとみるのが常識的だと思います。


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