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【県博テーマ展コラム】その14 名将は2度死ぬ?『吾妻鏡』のミステリー、どう読む


水野先生の短編コラム

当会顧問の水野拓昌先生にコラムを書いていただきました!



 


栃木県立博物館テーマ展『藤原秀郷とその末裔たち』(2025年2月22日~3月30日)では『吾妻鏡』の江戸時代の写本が展示されています。『吾妻鏡』は源頼朝の平家追討に始まり、鎌倉幕府創成期から中期の90年近くの記録が書かれた貴重な史料。史実を記録したものには違いありませんが、死んでも登場する人物、2度死ぬ人物がいて、どう読んだらいいのか不思議な部分もあります。

藤原秀郷のテーマとは離れますが、『吾妻鏡』のミステリーをのぞいてみます。


 

佐藤基治 奥州合戦で戦死?本領帰還?

 


まずは秀郷流藤原氏の一門で、信夫(しのぶ)佐藤氏の佐藤基治(さとう・もとはる)。源義経に忠義を尽くした佐藤継信、忠信兄弟の父です。信夫佐藤氏は同じく秀郷流である奥州藤原氏の最有力家臣の一族。基治も奥州合戦(1189年)で源頼朝率いる鎌倉軍と戦い、最後まで奮戦しました。

佐藤基治は『吾妻鏡』では「信夫佐藤庄司」「佐藤庄司」と記され、陸奥・信夫郡(福島県福島市)の荘園を治めていたことが分かります。

『吾妻鏡』1189年(文治5年)8月8日の記事では、激戦の末、討ち取られ、阿津賀志山(あつかしやま、現在の厚樫山)の東麓・経岡(福島県国見町)に首をさらされました。ところが、同年10月2日、「囚人佐藤庄司」が許されて本領に戻ったという矛盾する記事があります。



 

武田信義 死後もたびたび登場の不思議

 


武田信義(たけだ・のぶよし)は「新羅三郎」こと源義光の曾孫で、名門・甲斐源氏の当主。武田信玄の先祖です。「八幡太郎」源義家の血を引く源頼朝に従いつつも、同格意識が強かった人物です。

『吾妻鏡』1186年(文治2年)3月9日の記事によると、武田信義は59歳で死去。2年前の1184年(元暦元年)6月14日、信義次男・一条忠頼が源頼朝の命令で暗殺されています。頼朝はその怒りが解けていないと、武田氏の裏切りが強調されていますが、その根拠は不明。忠頼暗殺は頼朝によるだまし討ちで、頼朝が一方的に武田氏を疑っていた、もしくは同じ源氏の名門として警戒していたとも考えられます。


さて、1186年に死去したはずの武田信義ですが、『吾妻鏡』1190年(建久元年)11月9日と1194年(建久5年)6月28日、11月21日の記事に再登場します。1190年は頼朝上洛の随兵の一員、1194年6月は東大寺造営に関わる割り当てで名が明記。そして1194年11月21日の記事は小笠懸の射手として登場し、2人1組の対戦方式で、その1組目の勝者が「武田太郎信義」です。しかも相手は「武田五郎信光」で、うっかり誤記は考えにくい状況です。



 

伊東祐清 北陸で戦死か頼朝による処刑か

 


伊東祐清(いとう・すけきよ)は伊豆流罪中の源頼朝とも関わりが深い人物。父・伊東祐親が頼朝を討とうとした際、それを頼朝に知らせて逃したことがあります。

『吾妻鏡』1180年(治承4年)10月19日の記事によると、平家に味方した伊東祐親が頼朝配下の天野遠景に逮捕された際、過去の恩義を忘れていない頼朝は祐清に対し、味方に勧誘するためか恩賞を与えると言います。しかし、祐清は父が平家に味方しているとして拒否。釈放されると、平家側に参陣するため上洛しました。

そして、『吾妻鏡』1193年(建久4年)6月1日の記事で、平家に加わった伊東祐清が北陸道の合戦で討ち死にしたことが記されています。平家軍が木曽義仲に大敗した時のことのようで、篠原合戦(1183年)で討ち死にしたとする『平家物語』とも一致します。

ところが、『吾妻鏡』1182年(養和2年)2月15日の記事では、頼朝の助命に対して伊東祐清は、父が自害したので刑死を望み、頼朝もやむなく誅殺しました。


結局、伊東祐清の死は1182年か1183年か……?

『吾妻鏡』1180年の記事では「九郎祐泰」、1182年の記事は「九郎」、1193年の記事は「九郎祐清」、『平家物語』では「九郎祐氏」、さらに『曽我物語』や系図でも名がバラバラですが、伊東祐親次男で通称「九郎」という共通点があり、同一人物のはず。

こうした不思議な記述は、鎌倉幕府の公文書や日記など資料整理の段階で順番を間違えたというのが合理的な解釈ですが、前後関係から、そう単純な話でもない……という部分あって、なかなかのミステリーです。


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