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足利成氏 あしかが しげうじ 


No. 46


【足利成氏】

あしかが しげうじ

Ashikaga Shigeuji


鎌倉最後の第五代公方で初代の古河公方。戦いの生涯の中でいつか鎌倉に戻ることを願っていたが叶わなかった。


【別称・通称】永寿王丸(永寿丸)/万寿王丸

【官位】従五位下/中務大夫

【生年】永享10年(1438年)

【没年】明応6年(1497年)

【時代】室町時代〜戦国時代

【氏族・血族】源氏/足利氏

【在所・所領】下野国足利

【墓所】西光山乾亨院満福寺

【由縁の場所】鎌倉市/古河市/足利市


【家系・系譜】

父:足利持氏

兄弟:義久、春王丸、安王丸、成潤 

子:政氏、義綱(上杉顕実?孫とも)、貞岩昌永(孫とも)




古河公方の呼び名について


第四代鎌倉公方である父・足利持氏が永享の乱に敗れて鎌倉で自害。成氏は、瑞泉寺の僧・昌在に保護され信濃の大井氏を頼る。翌年、兄・春王、安王の下、結城で挙兵したが敗戦。兄たちは処罰されたが成氏は許された。


文安4年1447年、室町幕府に願って鎌倉に入り鎌倉公方となったが、成氏のもとに結集した公方派と関東管領上杉憲忠を核とする上杉派との対立は深まった。


享徳3年1454年の暮れ、上杉憲忠を御所に招いて謀殺。


康正1年1455年には鎌倉を出発して武蔵で上杉方と戦い、以後上杉方と全面的な対立となる。


結局、鎌倉を失い、そのまま下総の古河に入り、その後は鎌倉に戻ることはなく、古河に居を定めた。幕府は、将軍足利義政の弟政知を伊豆堀越に下し、関東を鎮定させようとした。

政知を堀越公方、成氏を古河公方と呼ぶのはここから出た呼称である。




生涯


成氏の生涯は、混乱の時代の中でほとんどを戦いに身を投じた人生であったが、ついに鎌倉に戻ることはなく古河でその最後を終えることとなった。


明応6年1497年死去。享年60歳。


臨終の際には嫡子の政氏を呼び、


「我れ空く成行くとも、秘計を廻らし敵を打従へ、再び鎌倉に還住し、関八州を手に属せば、中々無双の孝行なるべし」 


「再び鎌倉に環住し、関八州を取り戻すことが孝行である。何にも勝る弔いになる」


と言い残したという。


「いつかはまた鎌倉へ戻りたい」


と強く望んでいたのであろう。

その夢は叶わなかったが、その後古河公方は五代まで続いた。





※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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