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足利忠綱 あしかが ただつな


No.27


【足利忠綱】

あしかがただつな 

Ashikaga Tadatsuna


藤姓足利氏の第五代当主。戦いではいつも先陣を切る勇敢な猛将。秀郷由来の大鎧「避来矢(ひらいし)」を代々に伝えたといわれる。


【別称・通称】(本姓)藤原忠綱 又太郎 (幼名)王法師

【官位】下野守

【生年】長寛2年 1164年

【没年】建久5年 1194年

【時代】平安時代末期〜鎌倉時代初期

【氏族・血族】藤原北家秀郷流、藤姓足利氏

【在所・所領】下野国足利郡

【墓所】京都府宇治田原町/群馬県桐生市皆沢八幡宮

【由縁の場所】栃木県足利市/京都府宇治川

【家系・系譜】

父:足利俊綱

子:成綱 田原忠広


藤原秀郷をその先祖とする藤姓足利第五代当主。

治承・寿永の乱において、平氏方について戦った猛将。




■足利忠綱の概要


忠綱と敵対した鎌倉幕府の記録書である『吾妻鏡』によると、治承4年に以仁王が平家討伐の挙兵をした際、以仁王からの挙兵の令旨が小山氏には届いたが足利氏には届かなかったことを、一家の恥辱として平氏方に加わったという。


その時忠綱は17歳であったが一門を率いて上洛し、平氏の有力家人軍勢に加わって以仁王と源頼政を追撃した。宇治川の戦いでは、将兵の渡河をうながし、合戦を勝利に導くという勲功を挙げた。このことにより大いに武名が高まったため、総大将・平清盛に対して、恩賞として父・俊綱以来の宿願である上野国十六郡の大介職と新田荘を要求した。


清盛はこの申し入れを受け入れるが、忠綱の配下が、恩賞は一門で等しく配分すべきであると清盛に抗議したため、わずか数時間で撤回されたという。そのため、巳の刻(午前11時頃)から未の刻(午後1時)までの間の、午の刻のみ上野大介となったことから、「午介」とあだ名されて笑われたという。(「源平盛衰記」による)


寿永2年1183年2月、忠綱は常陸国の志田義広の蜂起に同調して野木宮合戦で頼朝方と戦ったが敗れ、上野国山上郷にのがれたが、その後の消息は不明である。父・俊綱も家人に裏切られて殺害された。


最後は源氏に帰順したとの説もあるが、ここに藤姓足利氏の宗家は滅亡した。




■「足利忠綱」勇猛な逸話


宇治川での逸話


宇治川の戦いの時、増水した宇治川を前に怯む味方側を横目に、17歳の若武者:忠綱が、「深さ、速さは利根川と変わらない。

皆続け。」と、「殿ばら続け」。真っ先に馬を川に乗り入れ、約300騎が「馬筏(うまいかだ)」となって続いた。

という華々しい戦功が「平家物語」に書かれている。坂東武者の誇りを示した名場面である。


「避来矢(ひらいし)」の逸話


避来矢とは、武士の始まり・藤原秀郷が百足退治の礼として龍宮の王からもらった、という謂れのある大鎧で、これを着ていると飛んで来る矢が当たらないといわれている。秀郷の子孫である足利忠綱がこの大鎧を受け継いでいた。

以仁王挙兵の戦いで、忠綱が敵と対峙した時、忠綱は、この重い大鎧から軽い鎧に替えて戦った。戦いを終えると、川べりに置いたはずの大鎧はなく、平らな石だけがあった。忠綱が、家宝をなくしたと嘆き石をたたくと、大鎧が現れたという。

それ以来、避来矢は平石とも呼ばれるようなった。




■ふたつの足利氏


足利氏というと、清和源氏の子孫で室町幕府を開いた足利氏が有名だが、平安時代の後期、下野国足利には、藤原秀郷を祖とする足利氏と源氏の流れをくむ足利氏が並立していた。

両足利氏を区別するために、藤原秀郷を祖とする足利氏を「藤姓足利」、清和源氏を祖とする足利氏を「源姓足利」とよぶ。


この藤姓足利氏と源姓足利氏は、平安中期から鎌倉初期まで並立していた。

当初は藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏の勢力が大きく、足利郡内を中心に広大な所領を持ち、同じく秀郷流の小山氏と並び称されるほどの力を持っていて、『一国之両虎』といわれていた。


源姓足利氏は後から足利地方に進出してきたが、当時の藤姓足利氏の勢力は強大で、なかなか勢力拡大とならなかった。


藤姓足利氏は、その後の源平の争いに際して、平家側について戦ったため源氏によって滅ぼされた。


その後の歴史情勢が変わっていたら、源姓足利氏が先に滅び、藤姓足利氏が武家の幕府を開いたかもしれない。



※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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