足利義兼 あしかが よしかね
No.21
【足利義兼】
あしかがよしかね
Ashikaga Yoshikane
頭脳明晰で処世に優れた源姓足利氏第二代当主。鎌倉時代からその後にかけての足利氏の基盤を作った人物。
【別称・通称】春王丸 (法名)義称
【官位】従四位下 足利荘下司職 上総介
【生年】久寿元年 1154年
【没年】正治元年 1119年
【時代】平安時代末期〜鎌倉時代前期
【氏族・血族】河内源氏義国流足利氏
【在所・所領】下野国足利
【墓所】樺崎八幡宮(栃木県足利市)
【由縁の場所】鑁阿寺(足利市) 足利学校(足利市)
【家系・系譜】
父:源(足利)義康
妻:正室:北条時子(北条政子の妹)
兄弟:義清、義長、義房
子:畠山義純、桃井義助、義氏、義胤(養子)
源姓足利氏二代当主。
■ 源氏の氏族について
源氏には、祖とする天皇によって21の流派があり、そのうちの一つが清和源氏である。
清和源氏の中の第六皇子貞純親王の子・経基王が後の源経基で、その子孫が後々源氏の主流として繁栄した。
源氏一族も時代を経て氏族が多くなり、各々がその本拠とした地名を通称として用いるようになる。その代表的なものが、下野国足利を地盤とする足利氏であり、また上野国新田(現・群馬県太田市)を本拠とする新田氏で、他に、武田、今川、佐竹、吉良など、有名武家に繋がっていく。
■ 足利義兼について
足利義兼は、将来を嘱望されながらも若くして生涯を終えた足利氏の祖、足利義康の三男で、義兼の母は、頼朝の母由良御前の妹なので、源頼朝とは従兄弟の関係である。
治承4年1180年、従兄弟の源頼朝が、以仁王の令旨に応じて伊豆国で挙兵すると、義兼は比較的早い時期から頼朝に従軍していたらしい。
■ 主な功績
元暦元年1184年、木曽義仲(源義仲)の残党の討伐において戦功を挙げる。
その後、頼朝の弟・範頼に属して平氏を追討した功績により、頼朝の知行国であった上総国(現・群馬県)の国司に推挙された。
文治5年1189年、奥州合戦に従軍。
建久元年1190年、出羽国において奥州藤原氏の残党が挙兵すると、追討使としてこれを平定している。
源頼朝の配下として幕府において高い席次を与えられていたが、頼朝の地位が高まっていくと、他の御家人と同様に、幕下に組み込まれることとなった。
■ 足利市の鑁阿寺
建久6年1195年3月に東大寺で出家し、義称(ぎしょう)と称した。
出家は、頼朝近親の源氏一族が相次いで粛清されたための処世術であったと言われている。また法名は鑁阿(ばんな)といい、足利市鑁阿寺の開祖ともいわれる。
鑁阿寺は、義兼が居館として建立した持仏堂を、子の義氏が整備したという。
また足利学校の創設者の一人ともいわれている。
■ 源姓足利氏のその後
建久10年1199年1月、源頼朝が死去すると義兼もこれを追うように同年3月に死去した。享年46歳。生入定であったとも伝えられている。
その後も源姓足利氏は、幕府内の地位を低下させながらも生き残り、長い雌伏の時を経て、先祖源義家から伝わる置文や子孫の足利家時の残した置文のとおり、室町幕府初代、足利尊氏により天下を手に入れることになる。
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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