【第11話】野木宮合戦、小山3兄弟の活躍(2022年6月11日 投稿)
水野先生コラム:11回目
源頼朝は1180年(治承4年)の挙兵後、平家との直接対決を後回しにして関東の地固めを優先しますが、その中で重要な戦いが野木宮合戦です。
野木宮とは野木神社(栃木県野木町)。小山氏の地元、下野国の最南端の地がその主戦場でした。戦いの経緯が『吾妻鏡』にしっかり書かれていて、特に小山3兄弟の活躍が強調されています。
■関東から反頼朝勢力を一掃
頼朝は1180年11月に常陸・金砂城(茨城県常陸太田市)の戦いで佐竹秀義を敗走させ、12月には上野・新田荘(群馬県太田市)を拠点とする新田義重が臣従。関東に残る抵抗勢力は頼朝の叔父・志田義広と藤姓足利氏でした。
志田義広は源為義の三男で本来、「源義広」。常陸南部の信太荘(茨城県稲敷市)を拠点としていました。通称は「志田三郎先生」。先生は「せんじょう」、皇太子護衛の隊長「帯刀先生」の役職に由来する通称です。
頼朝の金砂城攻めの際、弟の源行家(源為義の十男、通称は新宮十郎)とともに常陸国府で頼朝に面会しますが、その後も微妙な態度を取り続けます。
そして、志田義広が鎌倉を攻めるという噂が立ち、頼朝に従う小山朝政ら「北関東連合軍」と志田義広、足利忠綱(藤姓足利氏)ら「最後の抵抗勢力」が戦ったのが野木宮合戦です。
その時期は『吾妻鏡』によると、1181年(治承5年)閏2月。ですが、1183年(寿永2年)とする説が有力です。
合戦前、平家本隊が西から攻めてくるという動きもあって、頼朝は東海道に兵を出して警戒していました。
■小山朝政への大きな信頼、長沼宗政の猛攻
野木宮合戦は『吾妻鏡』の記述によると、1181年閏2月23日です。
西からは平家本隊、そして志田義広の不穏な動き……。切羽詰まった状況ですが、頼朝は小山朝政、下河辺行平(朝政の従兄弟)を絶大な信頼を寄せていました。
「下野に小山朝政がおり、下総には下河辺行平がいる。両名は命じなくても、きっと勲功を挙げるだろう」
鎌倉からはまとまった援軍を送れませんが、閏2月20日、小山朝政の弟・長沼宗政、親族の関政平(小山3兄弟の父・小山政光の従兄弟)が鎌倉から出陣します。ですが、頼朝は関政平の異心を見抜きます。その通り、関政平は進軍中に長沼宗政と分かれ、志田義広に味方しました。関政平はその苗字から今の筑西市に拠点があり、志田義広の勢力下に近いという事情があったようです。
小山朝政は北関東の諸将を味方につけ、志田義広には「味方をする」と噓を言って野木宮で待ち伏せします。閏2月23日、小山朝政の軍勢は登々呂木(とどろき)沢、地獄谷の林に隠れていた兵がときの声を上げて志田義広の軍を驚かせ、決戦に及びました。激戦を繰り広げたようで、小山朝政は志田義広の矢を受けて落馬、負傷します。小山朝政は最前線で戦っていたのです。
戦場に駆け付けた長沼宗政は、無人の兄の馬を見て、既に兄・小山朝政は討ち死にし、敗戦したのかと勘違いし、志田義広の陣に馬を走らせます。決死の突入です。この猛攻撃が効いて志田義広の軍勢を蹴散らします。
志田義広は取り逃がしたものの小山軍の大勝利。負傷した小山朝政の代理として長沼宗政が鎌倉に凱旋します。味方した諸将を引き連れ、生け捕りにした志田義広の家来29人も連行し、晴れがましい役目です。
その勲功もほめられたといい、長沼荘(栃木県真岡市)はこのときの恩賞の可能性があります。長沼の苗字を得て、長沼宗政と名乗るのは早くても野木宮合戦以降でしょう。
■結城朝光にも「勝利の神託」で恩賞
小山朝政、長沼宗政の弟・結城朝光は鎌倉に残り、鶴岡八幡宮に戦勝を祈願する頼朝に従っていました。
閏2月27日、7日間の祈願を終えた頼朝がふと、「志田義広の蜂起はどうなったであろうか」とつぶやくと、結城朝光は「既に兄によって攻め落とされているでしょう」と気負いなく答えます。頼朝は「この少年の言葉は全く神託だろう。もし、その通りになっていたら褒美を与えよう」と言い、御所に戻ると、小山朝政、下河辺行平の使者が到着していました。戦いの結果を速報する使者です。
結城朝光は出陣していませんが、恩賞を得ます。この幸運は「勝利の神託」の賜物。頼朝は極めて信心深い人物で、神前でのつぶやきを違えることはできなかったのです。
結城朝光が得た恩賞は何か分かりませんが、下総・結城の所領(茨城県結城市)を得て苗字の地としたのはこのときだった可能性もあります。
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