【第27話】鎌倉の暴言王!長沼宗政 鎌倉殿を痛烈批判した「荒言悪口の者」(2022年12月28日 投稿)
水野先生コラム:27回目
ライター:『鎌倉殿と不都合な御家人たち 「鎌倉殿」の周りに集まった面々は、トラブルメーカーばかり?』(まんがびと)『小山殿の三兄弟』(ブイツーソリューション)、『藤原秀郷』(小学館スクウェア)著者・水野拓昌
「鎌倉殿」ブームに便乗して小山3兄弟(小山朝政、長沼宗政、結城朝光)をアピールしようと意気込んだ2022年でしたが、小山3兄弟にはそれほど注目は集まらず、反省ばかりです。ただ、その中でも長沼宗政は確実に知名度、注目度がアップしました。鎌倉随一面白い武将の素顔をみてみましょう。
■ 「小山の武勇は一人宗政にあり」
1199年(正治元年)、弟・結城朝光は自身の発言がもとでピンチを招き、これが梶原景時の変につながります。このへんの事情は、 【第23話】結城朝光、不用意発言で招いた大ピンチは思わぬ展開に…梶原景時の変 をご参照ください。問題はそのときの長沼宗政の対応です。
多くの御家人が結城朝光を追い詰めた梶原景時を弾劾する署名に賛同しましたが、長沼宗政は署名しながらも花押を入れませんでした。つまり、土壇場で態度を覆す不可解さで、これには「結城朝光を助けるため、多くの御家人が己の身を忘れて賛同しているのに、実の兄がどうしたことだ」と顰蹙(ひんしゅく)を買いました。
このことでは梶原景時追討後、兄・小山朝政から痛烈にダメ出しを食らいます。
「五郎(長沼宗政)は荒言悪口(こうげんあっこう)の者で、いつも小山の武勇は一人政宗にあると自慢していたが、今回は梶原景時を恐れて武勇の名を落とした。今後いばったことを言ってはいけない」
「荒言悪口」とは、物言いがいつも荒々しく、人の悪口を言うことです。
■「当代は蹴鞠を業となし、武芸はすたれる」
1213年(建暦3年)、長沼宗政がまたやらかします。畠山重忠の末子で僧侶となった重慶(ちょうけい)が謀反を企てているという情報があり、宗政は将軍・源実朝から重慶逮捕を命じられます。これが9月19日。宗政は重慶の潜伏先、下野・日光に急行しました。
7日後の9月26日、宗政は重慶の首を持って鎌倉に帰還。これに将軍・実朝が激怒。逮捕を命じたのに、殺してしまうとは……。使者・源仲兼を通じて宗政をとがめます。
「かつて、畠山重忠は冤罪で討たれたのだ。その末子・重慶が陰謀をめぐらせたとしても同情の余地がある。まずは重慶の身柄を押さえて連れてきて事情を聴いたうえで処分すべきだったのだ。殺したのは命令違反で軽はずみだ」
宗政は使者の前で痛烈に将軍・実朝を批判。謝罪も言い訳もせず、反論します。
「重慶の謀反は疑いようもなく、生け捕りは簡単でしたが、連れて帰れば、(将軍の周りの)尼や女官が同情して許されるだろうと予想できたので斬首しました。こんなことで今後、誰が将軍に忠節を尽くすでしょうか。これは将軍のご過失です」
宗政の放言はこれで収まらず、さらに続けます。
「当代(実朝)は和歌、蹴鞠をよくやるようですが、武芸は廃れているようです。また、女官たちが重用され、勇士は無視されています」と言い放ち、謀反人から召し上げた所領が女官たちに与えられていると実名を挙げて批判しました。しかも、暴言はまだまだ続いたというすさまじさ。使者は何も言わずに退出。宗政は当然謹慎です。
これだけ言えば将軍批判というより悪口。処罰され、粛清されて当然ですが、梶原景時の変では宗政にダメを出した兄・小山朝政が助け舟を出し、閏9月16日、謹慎が解除されました。
危険を冒して正論を曲げない忠臣と、それを受け入れた名君の美談……だったのかもしれません。一歩間違えれば茶番になりかねないところですが。
■馬の専門家「名伯楽」
長沼宗政は承久の乱(1221年)でも活躍しますが、それは次回に。
宗政の特徴の一つに馬を見る専門家だったことが挙げられます。馬の状態を判断したり、病気を治したりする人を「伯楽」といい、1207年(承元元年)、宗政は源実朝に伯楽の奉行を任命されます。現在だと、スポーツや芸術の分野で優れた指導者を「名伯楽」といいますが、その語源は中国の人名に由来する名馬育成者、馬を見る専門家のことです。
長沼氏は下野国御厩(みうまや)別当職(長官)を代々継いでいますが、これも父・小山政光から宗政が継いだ職。馬の管理は交通、軍事で重要な意味を持ち、武士らしい仕事でもあります。
【次回のコラムも乞うご期待!】
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