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【第30話】宝治合戦、三浦一族滅亡 そのとき結城朝光は?「自分が鎌倉にいれば…」(2023年1月13日 投稿)




水野先生コラム:30回目

ライター:『鎌倉殿と不都合な御家人たち 「鎌倉殿」の周りに集まった面々は、トラブルメーカーばかり?』(まんがびと)『小山殿の三兄弟』(ブイツーソリューション)、『藤原秀郷』(小学館スクウェア)著者・水野拓昌



1247年(宝治元年)6月、三浦泰村が北条氏に反旗を翻し、討ち取られました。宝治合戦です。三浦義村、泰村父子と親しかった結城朝光は合戦後に鎌倉入りしたとき、執権・北条時頼の前で大胆発言をします。反逆者・三浦氏に同情したのです。当然、発言が問題視されます。結城朝光の運命はどうなったのでしょうか。




■三浦氏の縁の深い大河戸氏は小山3兄弟親族

結城朝光も三浦一族と親交がありましたが、三浦氏とただならぬ縁を持っていたのは小山3兄弟の親族・大河戸氏です。前回の略系図もご参照ください。↓


源頼朝挙兵当初、小山政光の兄・大河戸行方(重行)は平家に味方し、捕えられました。1181年(治承5年)2月、許された直後に急病で死亡。子息たちは三浦義澄(義村の父)に預けられていました。大河戸広行、清久秀行、高柳行基(行元)、葛浜行平の4兄弟です。大河戸広行が三浦義明(義澄の父)の婿という縁があったのです。4人は三浦義澄の仲介で鎌倉に行き、御簾越しに頼朝と面会。勇者らしい顔つきだと頼朝の機嫌も悪くなかったようです。4人が生き残ったのは三浦氏のおかげです。

時は移って、1205年(元久2年)6月23日、畠山重忠の乱の翌日、三浦義村が畠山重忠の親族を討ちます。このとき、重忠謀反のデマを流した黒幕として稲毛重成を討伐したのが高柳行基です。事件の責任を重忠親族に押しつけて抹殺する汚れ仕事。きな臭い動きをした三浦義村に加担させられたのです。

また、宝治合戦(1247年)で三浦泰村に加勢した武士に大河戸重隆がいて、これも大河戸一族です。なお、宇都宮一族の中で上条時綱も宝治合戦で泰村に味方し、敗死しましたが、宇都宮氏本隊は三浦には加勢していません。


■「自分がいたら泰村も恥をさらさずにすんだ」

宝治合戦が起きた1247年(宝治元年)、結城朝光は80歳。源頼朝のそば近くで仕えていた少年のころから随分と月日は経ちました。頼朝側近として同僚だった北条義時や、友人でもあった三浦義村は既になく、義村の次男・三浦泰村が有力御家人・三浦氏の当主となっていました。そして、北条義時の曽孫で20歳の北条時頼が第5代執権に就いたばかりでした。

緊張関係にあった北条氏と三浦氏は6月5日に武力衝突し、三浦一族の滅亡で決着。6月29日、自領・下総から鎌倉に来た結城朝光は北条時頼に面会しました。

「自分が鎌倉にいたら、泰村も簡単に討たれるような恥はさらさずにすんだだろうに」

勇将の誉れ高い結城朝光。自身が味方したら、もう少しまともな戦いができたという意味なのか、泰村を謀反に走らせることはなかったという意味なのか。真意は不明ですが、三浦泰村への同情を吐露したのです。


■執権・北条時頼の結城朝光に対する評価

この年の年末、各将への恩賞が検討された際、結城朝光について「6月の宝治合戦では言い過ぎがあった。処罰されるべきではないか」という意見が幕府内にありました。しかし、北条時頼は「もともと一本気な人で、確かに言い過ぎているが、表裏のない発言。しかも、残り少ない関東の宿老でもある。言葉尻をとがめて評価しなかったら、上に立つ者として恥だ」と、結城朝光を評価。朝光は肥後・小鳥荘(おどりのしょう、熊本県山鹿市)を拝領しました。

高齢を理由に不穏当な発言が不問に付され、何ともラッキー。これが結城朝光の生涯を象徴しているのかもしれません。言い過ぎがあっても日ごろの人柄が評価され、危険な場面も他人の力で回避。似たような放言癖でも兄・長沼宗政の暴言とは一味違った率直さが身を救ったのです。


【次回のコラムも乞うご期待!】


▼前回【第29話】のコラムを見る▼


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