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藤原秀郷 ふじわら の ひでさと

No.01

890~958年頃(今から1130年くらい前)

 

【藤原秀郷】

ふじわら の ひでさと

Fujiwara no Hidesato


【別称】俵藤太 田原藤太 (たわらのとうた)

【生年】890年頃 詳細不明

【没年】950年頃 詳細不明

【時代】平安中期

【氏族・血族】

藤原北家魚名流 藤原家の始祖で、大化改新の立役者:藤原鎌足の直系七世の子孫。

父:藤原村雄

母:下野掾鹿島某の娘

妻:源通の娘

妹:平国香の室

子:千常 千晴 千国 千種 他

【在所】下野国 武蔵国 (両国司) 伝・唐沢山城主

【官位】従四位下 下野守 武蔵守 鎮守府将軍

【墓所】佐野市新吉水町 秀郷公墳墓 伊勢崎市赤堀今井町 宝珠寺

【由縁の場所】佐野市唐沢山神社(城址)・宇都宮二荒山神社・宇都宮百目鬼通り・近江瀬田唐橋



【藤原鎌足の七世の子孫】


■秀郷の生い立ち


いわゆる武力をもって在地を治める「武士」という職業の、はじめの1人。


名門藤原家の直系に産まれながら、その生涯の前半はよくわかっていない。

下野国の役人として赴任した曽祖父の藤原藤成から下野国に根を下ろし、下野国司の役職を務めながら地元の有力豪族と姻戚関係を結び、祖父の豊沢、父の村雄とその位を上げて治めてきた経緯をみると、通説にあるような近江生まれではなく、下野で生まれ育った武将と考えられる。


下野国での四代目ともなり、若い内はわがままな御曹司的であったのか、相当に暴れん坊だったらしく配流の刑を受けるが、従った形跡はない。そこから考えると、平将門と同様に、朝廷や国司といった公権力と対立する立場にあったと言える。


しかし、後世の下野国司や鎮守府将軍などの役職を賜ったことなどから見ると、多少道を外すことはあったとしても、元気の良い名門藤原家の御曹司だったのではないか、と見ることができる。


また、地元での信頼も厚く相当の兵力を動員できるほどの勢力があったと思われる。このことが、平将門の乱の際、朝廷から鎮圧軍として利用されることとなったと思われる。




■平将門の乱を平定


天慶2年(939年)平将門が関東八州を征圧する「天慶の乱(平将門の乱)」を起こすと、藤原秀郷は、朝命を受け、甥の平貞盛らと連合し、将門の本拠地である下総国に攻め「平将門の乱」を平定した。


この時秀郷は、宇都宮大明神(宇都宮二荒山神社)に戦勝祈願をし、授かった霊剣をもって将門を討ったと言われている。


この功により従四位下に叙され、下野国国司に任じられ、武蔵守、鎮守府将軍も兼任した。

その後は、武士の始まりの一人として、その後の武将たちに多く支持され、秀郷流を名乗る名将も多い。初めての武士政権・鎌倉幕府を構成する武士たちにも同族子孫が多く登用されるなど、長く憧れの武将として羨望を持って尊敬された。



■秀郷の伝説は各地に存在!


宇都宮には、秀郷が退治したと伝えられる「百目鬼(どうめき)」と呼ばれる鬼を退治したという伝承があり、滋賀県近江の瀬田の大ムカデ退治伝説も有名で、共に将門との闘いの武勇伝が元になっているといわれている。


また一説には、将門の乱平定の話を元に、日光戦場ヶ原の由来が生まれ、そこから宇都宮の百目鬼伝説や近江のムカデ退治伝説が生まれたとも言われている。


このように勇壮な伝説や民話と共に錦絵なども多く伝わり、明治期から昭和戦前頃までは名将として大きな人気を誇っていたが、それ以降は、あまり表に出ることはなくなり、史実よりもヒーロー伝説としての武装貴族とされている。



▼百目鬼退治の物語はこちらから▼








※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。



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