比企能員 ひき よしかず
No. 15
【比企能員】
ひきよしかず
Hiki Yoshikazu
藤原秀郷流の名家で鎌倉幕府を支えたが、鎌倉幕府内の政権争いで不運な最後をとげる。鎌倉殿の十三人の一人。
【別称】藤四郎、判官
【時代】平安末期〜鎌倉初期 【生誕】不詳 【死没】建仁3年1203年 【墓所】鎌倉市大町 妙本寺 【官位】右衛門尉 【幕府】鎌倉幕府 十三人の合議制 【主君】源頼朝 頼家 【氏族】藤原北家秀郷流比企氏
【家系・系譜】
父:不詳
母:(養母)比企尼
兄弟:朝宗、丹後内侍、河越尼
妻:渋河兼忠の娘
子:余一兵衛尉、宗員、時員、他
■比企能員の生い立ち
『藤原秀郷』の流れをくむ名門比企氏の当主で鎌倉幕府の有力御家人。
頼家の誕生にあたって、最初の乳付けの儀式は比企尼の次女(河越重頼室)が行い、比企尼の三女(平賀義信室)、能員の妻も頼家の乳母になっている。
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■能員に託された重要な役目
頼朝挙兵以来の戦功によって信頼を得て、頼朝に重用された。
元暦元年1184年には、源義高討伐のため信濃国に出陣。
同年8月に、平氏追討に従軍。
元暦2年1185年壇ノ浦の戦いで平氏が滅んだのち、
捕虜として鎌倉に送られた平家の棟梁・平宗盛と頼朝が御簾越しに対面した際、
頼朝の言葉を伝える役目をしている。
上野国(こうずけのくに)と信濃国(しなののくに)の守護となり、
文治5年1189年の奥州合戦には北陸道大将軍、
建久元年1190年の大河兼任の乱には東山道大将軍として出陣。
頼朝上洛に際しては、随兵(警固にあたる武士)7人の内に選ばれた。
娘の若狭局は二代将軍・頼家の妻となり一幡 (いちまん) を産むなど、鎌倉幕府においては政界一の勢力となったが、能員の台頭を恐れた北条時政との対立により、のちに時政の陰謀ともいわれるが「比企能員の変(比企の乱)」が起こり、それが一因となって比企一族は滅亡した。
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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