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北条 時政 ほうじょう ときまさ


No. 61


【北条時政】

ほうじょう ときまさ 

Hojo Tokimasa



伊豆の豪族であった北条氏を歴史の表舞台に押し上げた立役者で、源頼朝と共に鎌倉幕府の成立に尽力した初代執権。



【別称・通称】北条四郎

【官位】駿河・伊豆守護、従五位下、遠江守

【生年】保延4年(1138年)

【没年】建保3年(1215年)

【時代】平安時代〜鎌倉時代

【氏族・血族】北条氏(自称:桓武平氏高望流)

【在所・所領】伊豆国田方郡北条

【墓所】伊豆の国市寺家願成就院

【由縁の場所】小田原市 伊豆の国市 鎌倉市


【家系・系譜】

父:北条時方または時家または時兼 

母:伊豆掾伴為房の娘

妻:伊東祐親の娘 足立遠元の娘 牧の方 

子:宗時 政子 時子 義時 阿波局 時房 政範 宇都宮頼綱室




■頼朝と共に政権の表舞台に


源頼朝と関係を持つ以前の北条時政については、よくわかっていない。

伊豆に流されていた源頼朝を娘政子の婿にしたことから、頼朝の平氏追討に従って挙兵し歴史の表舞台に登場する。

鎌倉幕府の記録書である「吾妻鏡」によると、治承4年1180年4月27日、以仁王によって発せられた「平氏を討て」との令旨が館にもたらされ、頼朝と時政の手によって幕府が始まったという。

「吾妻鏡」では、時政は40歳を越えても「介」などの位や都の官位等を付けず、ただ「北条四郎」「当国の豪傑」とのみ記している。

名もない東国の一豪族に過ぎなかった北条氏を一代で鎌倉幕府の権力者に押し上げた時政だが、一般的な評判は、あまり良くない。



■源氏の再興によって平氏の北条も力を持ちはじめる


永暦元年1160年3月平治の乱で敗れた源義朝の嫡男・頼朝が14歳で伊豆国・蛭ヶ小島に流された時から、時政の歴史が動きはじめる。

頼朝は、流人とはいえ源氏の御曹司であるため、それなりの扱いと同時に監視役もつけられた。その監視役が時政であった。

時政の娘・政子と頼朝が付き合うようになると、時政は、一度は二人を別れさせようとした。しかし政子の決心は固く、時政としても頼朝の人物を見込んだのだろうか、監視役という立場から、舅(しゅうと)として、また協力者として動き始めることとなる。この時点では、時代はどう転ぶかわからない訳で、時政が流人だった頼朝に賭けて平氏政権に反旗を翻したことは、時勢を察知しうる優れた先見性があり、

大胆な決断をできる度量をも持っていたのだろう。



■頼朝に認められて?一躍鎌倉政権のトップに


頼朝は、政治的に重要な判断は義理の父である時政に任せるのが一番と考えていたようだ。

文治1年1185年11月、頼朝追討の宣旨が源義経に出されたのに応じて、時政は、頼朝の代官として大軍を率いて上洛する。朝廷は、それに対応して今度は逆に義経追討の宣旨を出したが、時政はさらに、守護、地頭を置く権限や兵糧米を徴収することを朝廷に認めさせ、また頼朝の目指す朝廷政治の改革の方針を伝えてこれを実行させた。

京における時政の務めは、義経の追捕や治安維持、平氏残党の捜索、朝廷との政治折衝など多岐に亘っており、やがてその職務が「京都守護」という役職となる。

建久10年1199年1月13日、鎌倉幕府初代将軍源頼朝が死去。



■対抗勢力を排除、鎌倉幕府の実質的トップ?に


頼朝亡き後の将軍「鎌倉殿」には彼の嫡男・頼家が就くが、その独断専行体制や将軍専制に対する御家人たちの不満の蓄積などもあり、僅か三ケ月で頼家が持つ訴訟の直裁権を取り上げられてしまう。

そして新たに設けられたのが「有力御家人十三人の合議制」であり、時政は次男・義時と共にその13人の中に加わるなど、幕政の中枢を担う事となった。 (鎌倉殿の13人)

建仁3年1203年8月、頼家が俄かに危篤に陥ると、それを好機と見た時政は、比企能員を自邸に招いて謀殺、さらに軍勢を差し向け比企一族を討滅に追い込んでいる。(比企能員の乱)

当時、北条時政の権力の基本は、頼朝と北条政子のあいだに生まれた頼家と実朝の存在が大きかったが、同様に比企能員も頼家に自分の娘を嫁がせていて、一幡と公暁という子がいた。つまり比企能員の立場も有力で、比企の孫も将軍候補だったのである。

時政は、第二代将軍頼家をやめさせると伊豆修善寺へ押し込め、その弟の実朝を第三代将軍に擁立した。

建仁3年1203年10月、政所別当に就任。併せて「執権」に任ぜられたとも言われており、これにより時政は幕府における専制を確立した。



■実子の義時によってトップから降ろされた不運とは?


元久2年1205年閏7月、牧の方との共謀により、将軍・実朝を廃して娘婿の朝雅を新たな将軍に据えようと画策。 このことは、実子である北条政子・義時ら一族内からも強い反感を招く事となった。

元久2年1205年閏7月19日、政子と義時は結城朝光や三浦義村らを派遣し、将軍・実朝の身柄の安全を確保。時政についていた御家人らの多くも政子と義時の側に与し、新将軍として擁立される運びであった平賀朝雅も京で討たれた事で、時政の企ては完全に頓挫し時政の政治生命も絶たれる結果となった。 翌日7月20日に牧の方と共に出家し、やがて鎌倉からも追われる身となった。

建保3年1215年正月6日死去。享年78歳であった。



■鎌倉幕府の源氏も三代で・・・・


時政のあとの執権には、子の義時が就いた。義時は頼家の子・公暁に言い含め、公暁は実朝を憎むようになり、「私の父(頼家)も兄(一幡)も祖父(比企能員)も、死んだのは実朝のせいだ」と思うようになる。

健保7年1219年1月27日、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の式典に際し、公暁が実朝を暗殺。公暁にとっては仇討ちのつもりだったが、その結果公暁も討伐され、ここに源氏の正統は頼朝以来三代で滅びることになった。



※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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