岩崎 義基 いわざき よしたか
No.34
【岩崎 義基】
いわざき よしたか
Iwazaki Yoshitaka
木曽義仲の嫡子の義高ともいわれる若き武将。頼朝と対立し逃げてきた義高を佐野氏が匿い、名を義基とさせたという。
【別称・通称】志水(清水)冠者義高(しみずかんじゃよしたか)
【官位】?
【生年・没年】不詳(1200年頃)
【時代】平安時代末期〜鎌倉時代初期
【氏族・血族】(伝承によれば)木曽(源)義仲の嫡子、清和源氏義為流(河内源氏)(もしくは)藤姓足利流佐野氏
【在所・所領】下野国佐野岩崎
【墓所】?
【由縁の場所】佐野市/岩崎城址/興聖寺城址
【家系・系譜】父:(伝)源義仲
鎌倉幕府の第二代執権。
伊豆国の在地豪族・北条時政の次男。源頼朝の正室・北条政子の弟。得宗家北条氏第二代目当主。
■岩崎義基の生い立ち
武士が生まれて以来、各時代・各地域で、伝説の・伝承の・・・といわれる武士は数多い。
そのほとんどが「悲劇の・・・」という前書きがつくが、日本人らしい敗者や弱者を優しくみつめる心情が生んだ伝説なのかもしれない。
岩崎義基(いわさきよしたか)もそんな一人である。
木曽義仲(源義仲)に義高という嫡男がいて、時の鎌倉幕府の将軍・源頼朝の長女・大姫と婚約していた。
■佐野基綱によって改名される!?
木曽義仲(源義仲)に義高(岩崎義基)という嫡男がいて、時の鎌倉幕府の将軍・源頼朝の長女・大姫と婚約していた。
義仲は、平氏打倒に立ち上がり入京したが、京での配下の軍の無統制ぶりが仇となり、結局は頼朝と対立していく。
義高(義基)は、当時在住していた頼朝の館を脱出したが、入間河原(埼玉県入間市)で頼朝軍の追手に討たれた。
許婚を殺された大姫の悲恋の物語だが、一説によると、逃げて来た義高を佐野基綱が匿い、岩崎義基(いわさきよしたか)と名を改めさせたという。
義高=義基、共に「よしたか」と読ませるところがポイントである。
■木曽ノ直伝
この説、信憑性は薄いかもしれないが、武士のエピソードとしては大変面白い。
危険人物を匿うということは、鎌倉御家人として重要な立場にいた佐野基綱としては、あまりにも大胆で無防備すぎる行動だろう。
そのくらい岩崎義基という人物が魅力的だったのか、義基の親である木曽義仲に同情していたのか・・・
佐野市西部を拠点にした岩崎氏に関しての一説に、地域の古文書に「木曽ノ直伝」とあるということなので、木曽の流れを引く一派がいた可能性もあるといわれている。
■執権政治への流れ
佐野市吉水の興聖寺城は、佐野国綱が岩崎義基のために築いたといわれている。
佐野市岩崎の岩崎城は、文治元年1185年に佐野義基が築城したといわれる。
佐野市山形町の御所之入と呼ばれる地域に義基と妻の供養塔とされる2基の五輪塔がある。
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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