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源頼朝 みなもと の よりとも 


No.20

 

【源頼朝】

みなもと の よりとも 

Minamoto no Yoritomo


若い時代は不遇であったが、源氏の惣領として坂東の武士をまとめ、初めての武家政権・鎌倉幕府を確立した。


【別称・通称】鬼武者/鬼武丸(幼名)/三郎/鎌倉殿

【官位】正二位/征夷大将軍

【生年】久安3年1147年4月8日

【没年】建久10年1199年1月13日

【時代】平安末期〜鎌倉前期

【氏族・血族】清和源氏為信流河内源氏

【在所・所領】相模国鎌倉

【墓所】法華堂跡(鎌倉市)/白旗神社(鎌倉市)/矢ノ森八景(一関市)

【由縁の場所】神奈川県鎌倉市/伊豆


【家系・系譜】

父=源義朝  

母=熱田大宮司・藤原季範の娘

妻=正室・北条政子(北条時政の娘)

兄弟=義平、朝長、義門 その他

子=千鶴丸、大姫、源頼家、三幡、実朝



初めての武士政権である鎌倉幕府を作った初代鎌倉幕府将軍




源頼朝の生涯


源氏の棟梁源義朝の三男として熱田神宮近くで生まれる。

三男だが母が正室であったため、源氏の嫡流として育てられた。

父義朝は平治の乱に破れ、鎌倉に落ち延びる途中で殺された。

頼朝は平家軍に捕らえられたが、平清盛の母の助命嘆願で助かり、伊豆の蛭ヶ小島に配流となった。


配流の伊豆で、土地の土豪北条時政の娘政子と知り合い結婚。二人の仲を取り持ったのは、鎌倉殿の十三人の一人、安達盛長であったといわれる。

その後の長い雌伏の時を経て、治承四年1180年、頼朝は平家打倒の旗を掲げ、武家政権樹立へ動き始める。


途中、従兄弟で木曽のライバルだった木曾義仲との争いや、強大に朝廷を操る後白河法皇との確執もあったが、長い源平合戦の末ついに平家を倒し、四月史上初の武家政権を樹立した。


建久10年1199年正月、落馬がもとで亡くなった。




源頼朝と藤原秀郷


武士としての意識、気位は高く、その意深く藤原秀郷を意識していたといわれる。

秀郷子孫の西行法師(佐藤義清)が奥州に向かう途中鎌倉に立ち寄った際、頼朝は西行を館に招き、弓馬兵法や歌道の教えを請うたという。


西行とは夜を通して語り明かし、西行の話を祐筆に記録させたといわれている。

また、秀郷流の武士で鎌倉幕府を支えた小山朝政からは、秀郷流の流鏑馬の作法を学んだという。




頼朝の死後


頼朝が亡くなった後の源氏の運命は悲惨であった。

長子・頼家は二代将軍、二子実朝は三代将軍になったものの、実権は北条氏を中心とする武士団に握られた。


源氏は治世からは遠ざけられ、最後には非業の死を遂げた。

そしてその後の鎌倉幕府を継いだのは、政子とその一族の北条氏であった。


頼朝が苦労して築き上げた源氏の鎌倉幕府は三代でその幕を閉じたが、関東に初めて武士による新しい幕府を開いた頼朝は、真面目で偉大な政治家であったといえるだろう。





※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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