源義経 みなもと の よしつね
No.17
【源義経】
みなもと の よしつね
Minamoto no Yoshitsune
鎌倉時代随一のアイドル武将。波乱万丈の人生と悲劇的な最期から、その後の人気が現代まで続いている。
【別称・通称】牛若丸(幼名)/遮那王/源九郎/九郎判官
【官位】従五位下/左衛門少尉/検非違使少尉 伊予守
【生年】平治元年(1159年)
【没年】文治5年(1189年)
【時代】平安時代末期〜鎌倉時代初期
【氏族・血族】清和源氏為義流/河内源氏
【在所・所領】?
【墓所】宮城県栗原市判官森(伝胴塚)/藤沢市白旗神社(伝首塚)
【由縁の場所】京都五条大橋(現松原橋)/鞍馬寺/岩手県平泉町 など全国多数
【家系・系譜】
父:源義朝
母:常盤御前 兄:源頼朝
側室:静御前
父・源義朝の九男で、頼朝(三男)の異母弟にあたる。
平治の乱で、源氏は平清盛率いる平氏に大敗、率いた源義朝は討死し、これ以降は平氏の時代となった。
■ 生涯について
義朝の長男・義平は斬首刑、次男の朝長も討死、三男の頼朝は伊豆へ流罪となった。
九男の義経も処刑されるはずだったが、絶世の美女であった母・常盤御前が清盛に見初められ、清盛の妾となること、将来武士になって平氏に楯突かないよう三人とも寺へ出家させるという条件で、常盤御前の三人の子ども今若、乙若、牛若(のちの義経)の命が助かったという。
そして義経は京の鞍馬寺に入った。「義経記」によると、義経が鞍馬寺に預けられたのは、7歳のとき。仏教で太陽という意味の「遮那王」(しゃなおう)という名で呼ばれ、学問僧として期待され、学問に励んだ。
兄の頼朝は流刑で伊豆の地にいたため、直接の面識はなかったらしい。
義経の鞍馬寺における生活、その東(あずま)下りの事情や従者・家来についても、詳細はまったく不明である。
その後、陸奥平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せたといわれる。
そのため、その後に書かれた「平治物語」や「義経記」などは、天狗の剣術指南、弁慶との出会い、金売吉次の伝説など、さまざまな「牛若」物語を伝えており、そのミステリアスな生涯がその後の人気に繋がっていると思われる。
治承4 年1180年、兄・源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、その挙兵に応じて頼朝配下に加わった。
源平の合戦では、平氏を、一ノ谷、屋島、壇ノ浦と追い詰め、実戦部隊の指揮官として平家滅亡に大きな戦功を立てた。
平家滅亡後、頼朝の推挙を経ずに検非違使、左衛門尉に任官され、後白河上皇に接近したことから頼朝と不和となったといわれる。
この時、検非違使(けびいし)に任ぜられ、律令制の四等官の第三位の官:左衛門尉(判官の職)であったことから、後に九郎判官(くろうほうがん)と呼ばれるようになる。(九郎は、源義朝の九男だったことから)
■ 義経の英雄伝説
義経の伝記は不明なところが多く、数奇な運命をたどるため、その生涯は格好の英雄伝説として物語化されている。「義経記」をもとに、物語化が進み、浄瑠璃や歌舞伎などの完全な創作によって、その伝承が構成に伝わることになった。
特に頼朝の厳しい追及によって窮死する生涯への同情は、いわゆる「判官贔屓(ほうがんびいき)」となって、日本における代表的な英雄伝説をつくりあげた。
【判官贔屓=「ほうがんびいき」と「はんがんびいき」】
「判官贔屓」という言葉は、源義経の悲劇的な人生やその最期から感じる同情や愛惜の心情のこと。ひいては、弱い立場の人に対しての同情などの心理現象をいう。「判官」は、国語的には「はんがん」と読むのが正しいが、義経の呼称にならっての使い方や歌舞伎などでは、義経の別名「九郎判官(くろうほうがん)」から伝統的に「ほうがん」と読む。
「判官贔屓(はんがんびいき)」という読み方・用法は、「赤穂事件」をモデルにした浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」の主人公の一人「塩谷判官(えんやはんがん)」(現実では浅野内匠頭)に同情を寄せる心情から、同様に悲劇的な主人公や弱者・敗者に対して呼称する。
意味は近いが、感情の基本に両者のどちらを思い描くかにより言い方が変わる。
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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