【第3回】源氏没落「平治の乱」そのとき小山政光は? (2022年2月5日 投稿)
水野先生コラム:3回目
源頼朝は平家を倒して鎌倉幕府を開く前、
罪人として20年に及ぶ雌伏の時代を過ごします。
源平合戦や頼朝の行動などの伏線を知ると、鎌倉時代の始まりもより面白味が深まります。
■クーデターと鎮圧…平家全盛の幕を開けた平治の乱」
頼朝は逮捕されて、伊豆に流罪となりました。
「そのとき小山政光は?」といっても、前稿の通り、その行動はほとんど不明。
ですが、義朝の家臣だったとすれば、大きな転機となったはずです。
「平治の乱」はクーデターとその鎮圧による2段階の武力政変劇。
まずは、院政内の主導権争いです。
後白河上皇の院政を動かしていた信西(藤原通憲)の排除を狙って、藤原信頼(藤原北家)と源義朝が行動を起こします。信頼らは、上皇と二条天皇を幽閉して実権を握り、逃走した信西はあえなく見つかって殺害されました。
信西は官位こそ低く、閣僚の下の実務官僚といった少納言でしたが、後白河上皇の院政を動かす独裁者にのし上がっていきます。
長く不遇で、出世を諦めた時期もあり、既に出家していましたが、たいへんな博識。鳥羽法皇(後白河の父)の院政期に頭角を現します。妻・紀伊局は雅仁親王の乳母(めのと)で、この雅仁親王こそが後白河天皇です。譲位後は上皇(出家後は法皇)として院政の主役となります。
信西死後の平治の乱第2幕。平清盛が反撃に出ます。一部貴族を味方につけ、幽閉状態だった二条天皇、後白河上皇を脱出させて、源義朝と対決し、大勝。信西を討ったクーデターから二十日もしないうちに藤原信頼と源義朝はあっけなく敗北しました。
■「武者の世」の始まり…保元の乱
「平治の乱」の3年前に起きたのが「保元の乱」。
後白河天皇と崇徳上皇の同母兄弟の争いに摂関家の兄弟対立が絡んだ戦乱です。
崇徳上皇は、自身の子を皇位に就けて院政を敷く機会をうかがい、戦乱を仕掛けたということですが、あるいは挑発されたか、噂先行で戦乱の首謀者に仕立て上げられたのが真相……、という見方もあります。
保元の乱は、強気の姿勢の信西が武士を巧みに操り、後白河天皇の陣営が勝利。鎌倉時代の僧・慈円は『愚管抄』で、「日本国始まって以来の反乱というべき事件」とし、これ以降、「武者の世になってしまった」と書いています。時代の主役が貴族から武士になったことを端的に表したといえますが、関白・藤原忠通の子息で、藤原氏本流の血を引く慈円としては、むしろ、貴族の政争を武力で解決する時代になったことを嘆いたものでしょう。それまで、戦乱というのは地方のことで、王臣入り乱れて都の中で戦うということは、これが初めてだと嘆いたのです。
この保元の乱では、源氏、平氏ともに親族間で敵味方に別れてしまいます。勝者は親族を処刑。武士にとって苦い勝利です。源義朝は父と弟たちを斬首。当時としてもけっこう衝撃的な事件で、『愚管抄』は「義朝は親の首を斬ったと、ごうごうたる世間の非難を受けた」と書いています。
▼藤原氏の成り立ちが一目でわかる!藤原氏カンタン年表▼
■幼い弟たちを船岡山で斬首……源義朝の苦すぎる勝利
さらに、義朝は戦いに参加した弟だけではなく、幼い弟たちの処刑を命じられます。7~13歳の乙若、亀若、鶴若、天王の4人。義朝の長男・義平16歳、次男・朝長14歳より年少なのです。
『保元物語』はことさら、この悲劇を強調しています。源義朝の家臣、波多野義通は父・為義に会わせると、幼い子供たちを輿に乗せます。子供たちは「遅いよ、遅いよ」と輿の担ぎ手を急かしますが、これが死出の旅路。平安京の真北に位置する船岡山で、泣きわめく弟たちを乙若がなだめ、兄・義朝の没落を予想して斬首されるのです。
その不吉な予見は3年後の「平治の乱」で的中。多くの親族や家臣を巻き込む源義朝の敗戦の悲劇を『平治物語』が強調しています。『保元物語』『平治物語』を通して源義朝は悲劇の主人公でした。
この後の、源氏に従った多くの坂東武士も平家全盛の20年を耐え忍ぶ時期を迎えます。小山政光もその一人だったのでしょうか。
▼前回のコラムを見る▼
▼水野氏の最新刊「小山殿の3兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」はAmazonにてご購入いただけます♪(詳しくは下の画像をクリック)
SNSでお友達やご家族にシェアをお願いします♪
Comments