【第1回】好機到来!「鎌倉殿」忠臣・小山3兄弟を知ろう!(2022年1月1日 投稿)
水野先生コラム:1回目
はじめまして。小説『藤原秀郷』、『小山殿の三兄弟』を書いた水野拓昌と申します。
よろしくお願いします。
2022年はNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で鎌倉時代が注目されます。藤原秀郷の時代とは離れますが、その子孫であり、関東屈指の武士団となる小山3兄弟をアピールするまたとないチャンス。逃すわけにはいきません。
また、小山氏だけでなく、秀郷の子孫の武士(秀郷流藤原氏)も大いに活躍します。この時代の小山3兄弟を中心に秀郷流の活躍を少しでも紹介できればと思っています。
■兄弟の苗字はバラバラ…それぞれ有力御家人として独立
とはいっても、「鎌倉殿の13人」に小山3兄弟が登場するかどうかは不明です。たぶん出てこないかな。
「13人」とは、鎌倉幕府2代将軍・源頼家(頼朝の嫡男=跡継ぎ)のとき、「13人の合議制」で政治を動かした重要閣僚。その中に入っていない小山3兄弟は「その他大勢」であり、主要キャストではないようですが……。まぁ、番組展開を予想するコラムでもないし、小山3兄弟をアピールするのが狙いなので、「13人」に入っていなくても、いかに重要人物だったか、おいおい説明していきたいと思います。
苗字が違います。それぞれ若いころから独自の所領を持っていました。
下野・小山郷(栃木県小山市)、下野・長沼荘(栃木県真岡市)、下総・結城郡(茨城県結城市)。それぞれ、本拠地の地名がそのまま苗字になっていきます。
通称は小山朝政が小四郎、長沼宗政が五郎、結城朝光が七郎です。
▼その他、プロフィールは「坂東武士図鑑」へ(画像をクリック)
■「鎌倉殿」源頼朝が厚い信頼寄せた3兄弟
「鎌倉殿」は鎌倉の主、すなわち鎌倉幕府征夷大将軍。
その初代・源頼朝は小山3兄弟に厚い信頼を寄せていました。
有力御家人として、源平合戦、奥州合戦(奥州藤原氏攻め)で武勇を発揮。『平家物語』には名前が出てくる程度ですが、戦後の所領拡大をみれば、戦功が大きかったことは明らかです。特に、奥州合戦後、3兄弟はそろって陸奥最南端に所領を得ています。これは関東と奥州の境界を守らせる頼朝の意図が明確に表れています。
さらに、小山3兄弟の重要性を示す事柄はいろいろあります。
源頼朝は挙兵直後、小山朝政宛に参陣を求める書状を出す
3兄弟の母・寒河尼は、結城朝光を連れて頼朝のもとに駆け付ける
朝光は頼朝近習(親衛隊、お小姓)に取り立てられる
野木宮合戦で頼朝の叔父・志田義広と戦い、関東から反頼朝勢力を一掃
野木宮合戦では、頼朝の異母弟・源範頼を擁立
平家追討戦では、源氏勢主力・範頼の本隊に参加
鎌倉の儀式では、重要なポジションをキープ
だいたい、こんなところですが、まだまだあります。
■危機もあったが…鎌倉政争を生き抜いた小山3兄弟
源頼朝死後、鎌倉はすぐに御家人同士の内部抗争の時代に入ります。
2代目鎌倉殿すなわち頼朝の嫡男・源頼家が将軍に就き、その独裁を抑制するシステム(元々は訴訟処理システム)として「13人の合議制」がスタートしますが、この重要閣僚13人の中から、次々と政争の犠牲者が出ます。
梶原景時(1200年、一族滅亡)、比企能員(1203年、一族滅亡)、北条時政(1205年、追放)、和田義盛(1213年、一族滅亡)。三浦義澄、安達盛長も子孫が滅亡します。このシステムは早々に空中分解し、長続きしなかったようです。
それはそれとして、梶原景時の変は、結城朝光が景時の讒言で処罰されそうになった事件が発端。北条時政追放後も宇都宮頼綱に謀反の疑いがかかったとき、小山朝政がかばいきりました。
相手は新執権・北条義時。
北条氏とのけんかに勝ち、生き抜いたのは小山氏くらいでしょう。武力行使を伴わず、けんかというよりも神経戦だったのがミソ。いったん武力行使となれば、北条敵対勢力は必敗です。
いずれにしても、一歩間違えれば、小山氏そのものが族滅する危機を見事に乗り切りました。小山3兄弟活躍の物語、ご期待ください。
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