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新田義貞 にった よしさだ


No. 41


【新田義貞】

にったよしさだ 

Nitta Yoshisada


名門源氏でありながら天下を取れなかった足利尊氏のライバル。後醍醐天皇の建武の新政を支えた一人。


【別称・通称】小太郎(通称) 孫太郎

【官位】従四位下/上野守/大納言正一位

【生年】正安3年(1301年)

【没年】延元3年建武5年(1338年)

【時代】鎌倉時代後期〜南北朝時代

【氏族・血族】河内源氏義国流新田氏本宗家

【在所・所領】上野国新田庄

【墓所】称念寺(福井県坂井市)/金竜寺(茨城県龍ケ崎市)

【由縁の場所】群馬県太田市/鎌倉市 

【家系・系譜】

父:新田朝氏  

兄弟:脇谷儀助

妻:小田真知

子:義顕、義興、義宗、嶋田義久、熊谷貞直



新田義貞は、不遇の武将であった。

義貞が生きていた時代は、鎌倉末期から南北朝の混乱が続いていた。




建武の新政と義貞の生涯


義貞は、河内源氏三代目である源義家の四男・義国の長子である新田義重を始祖とする上野源氏・新田家の当主で、義国の二子である足利義康よりも血筋の上では上位にあった。


元々は広大な新田荘を開発していたが、八代の義貞時代には新田氏本宗家の領地はわずか数郷を所有していたに過ぎず、義貞自身も無位無官であり、北条得宗家との関係が険悪で、鎌倉幕府から冷遇されていた。


そんな時、後醍醐天皇より倒幕の呼びかけがあり、義貞もそれに呼応して兵をあげる。兵を挙げた当初はたった150騎だった兵力も、東国の源氏たちが馳せ参じ、総勢7000騎にまでもなったといわれる。


京では足利尊氏が同じく兵をあげ、京を制圧。後醍醐天皇が政権を握り、「建武の新政」が始まる。


義貞は、鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武の新政の東国における立役者の一人となった。


建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏は、後醍醐の建武政権に反旗を翻す。


義貞は、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されて足利尊氏に対抗したが敗れ、恒良・尊良親王を奉じて越前の金ヶ崎城に拠よったがそこも落城、藤島の戦いで斯波高経と交戦中に戦死した。延元3年建武5年1338年のことである。


後年、徳川家康が新田の子孫を名乗る。(真偽は別にして・・・)




太平記について


新田義貞と聞いて、その名将ぶりや不遇の生涯よりも、文部省唱歌「鎌倉」の一節を思い浮かべる年配の方が多いのではないか?

昭和の小学生たちが歌った文部省唱歌「鎌倉」の、一番の歌詞で、新田義貞の「太平記」の逸話が歌われている。



【太平記の逸話】

後醍醐天皇の呼びかけに応じて挙兵した新田義貞は、

鎌倉を攻めルため稲村ヶ崎の海岸を渡ろうとしたところ、

当時は崖で道が狭く、軍勢が稲村ヶ崎を越えられなかった。

そこで、義貞が潮が引くのを念じて黄金造りの剣を投じると、

龍神が呼応して

見るまに潮が引き干潟となって渡ることができた。


文部省唱歌「鎌倉」

作詞:芳賀矢一  作曲:不詳

大正3年(1914)刊行の「尋常小学唱歌」第六学年用に掲載された文部省唱歌。


七里ヶ浜(しちりがはま)の磯づたい

稲村ヶ崎名将の

剣(つるぎ)投ぜし古戦場


極楽寺坂越え行けば

長谷観音(はせかんのん)の堂近く

露坐(ろざ)の大仏おわします


由比(ゆい)の浜辺を右に見て

雪の下村(したむら)過ぎ行けば

八幡宮の御社(おんやしろ)


上(のぼ)るや石のきざはしの

左に高き大銀杏(おおいちょう)

問わばや遠き世々(よよ)の跡


若宮堂(わかみやどう)の舞の袖

しずのおだまきくりかえし

返せし人をしのびつつ


鎌倉宮にもうでては

尽きせぬ親王(みこ)のみうらみに

悲憤の涙わきぬべし


歴史は長き七百年(しちひゃくねん)

興亡すべて夢に似て

英雄墓は苔(こけ)むしぬ


建長円覚(えんがく)古寺の

山門高き松風に

昔の音やこもるらん





※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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