佐野国綱 さのくにつな
No. 35
【佐野国綱】
さのくにつな
Sano Kunitsuna
藤原秀郷の子孫という誇りをもった下野佐野氏の第二代当主で、鎌倉幕府の猛将として活躍し幕府を支えた。
【別称・通称】佐野太郎
【官位】?
【生年】不詳(1200年前後)
【没年】不詳
【時代】平安時代末期〜鎌倉時代初期
【氏族・血族】藤姓足利氏/秀郷流/佐野氏
【在所・所領】下野国佐野
【墓所】?
【由縁の場所】栃木県佐野市/興聖寺城址/兵庫県淡路市
【家系・系譜】父:佐野基綱
■「吾妻鏡」に登場する佐野太郎
鎌倉幕府の記録書「吾妻鏡」に、佐野太郎として佐野国綱の活躍が記されている。
「承久の乱で、後鳥羽上皇方の錦織義継(にしごりよしつぐ)を生け捕りにしたが、義継は弓馬、相撲に秀でた勇士で、常人を超える力持ち。そんな義継と渡り合える武士として佐野太郎らが選ばれた。捕らえられてもなお抵抗し、なかなか屈服しないので、他の佐野の郎党も加わってようやく抑えた。」たった一人の敵将に、味方の腕自慢が数人がかり。
ちょっとオーバーに書かれているのかもしれないが、それほど強い義継に対抗できる勇猛な武将として、佐野太郎やその一族が認知されていたのは事実のようである。
■佐野太郎=佐野国綱
佐野太郎とは、佐野氏の祖の基綱の嫡男、国綱といわれている。
佐野太郎は、「淡路国大田文(おおたぶみ)」に貞応2年1223年、淡路国に新しい領地を得る、とも記載されている。
それほどの活躍があり、重要な地位にいたということであろう。
佐野一族の活躍は国綱ら一族の活躍のことと言われている。
建保5年1217年、日光・中禅寺に御殿を寄進、その際の「中禅寺古棟札」の写しに国綱、景綱、宗綱、親綱と兄弟の名が記されている。
当時、佐野氏当主は国綱であったと思われ、その国綱の時代に、佐野氏は拡大したといわれている。
■藤原秀郷の子孫としての誇り
国綱は佐野市吉水地区付近を本拠にして地域支配を進めた。
興聖寺(同市吉水町)がある清水城本丸跡は後の時代の城跡で、国綱の屋敷の所在地は不明だが、この一帯で勢力を拡大し維持していたようである。
佐野氏は、藤原秀郷の子孫という誇り高い武家として戦国時代も活躍し、江戸時代の改易後も旧家臣が佐野の地に残り、武勇を語り継いだ。
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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