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佐野基綱 さの もとつな


No.30


【佐野基綱】

さのもとつな

Sano Mototsuna


藤原秀郷流の誇りを持って鎌倉幕府を支えた下野佐野氏の初代当主。その後の佐野氏の隆盛の基礎を築いた。


【別称・通称】佐野太郎  

本姓:足利基綱

【官位】佐野太郎太夫 安房守

【生年】?

【没年】暦仁元年 1238年

【時代】平安時代末期〜鎌倉時代初期

【氏族・血族】藤姓足利氏 佐野氏

【在所・所領】下野国安蘇郡佐野庄

【墓所】清水大同山東明寺(廃寺。跡地は、現在藤原秀郷公墳墓(佐野市新吉水町)

【由縁の場所】佐野市 鎌倉

【家系・系譜】

父:足利有綱(戸矢子有綱)

兄弟:園部行綱/高綱/阿曽沼広綱/木村信綱/柏木有房/壬生親綱/鍋山有利/那須綱吉/堀川元親/白山賢巌/加賀局

子:国基 景綱



佐野氏は藤原秀郷の末裔で、藤姓足利氏から分かれた佐野基綱を初代とする。

伯父の足利俊綱忠綱親子が平家に付いて没落する中、

基綱は源頼朝に従い、鎌倉幕府御家人の地位を得た。


佐野氏は、一方の軍だけに付くことを避けていたようだ。

一族の中で敵味方に別れることなるが、源平合戦の際も一族の政略として源平二手に分かれて氏の存続を計ったといわれる。藤姓足利氏の中で、

俊綱、忠綱親子が平家側に、基綱は源氏側についた。


このリスク管理術は戦国時代、北条氏ら大勢力との対応でも発揮される。




佐野基綱と源頼朝


佐野基綱は、藤姓足利氏一門・足利有綱の子として誕生。

本宗家である伯父・俊綱とその子・忠綱が、平家方の傘下として常陸国の志田義広(頼朝の叔父)に就き勢力を得る。

寿永2年1183年、頼朝の厳命を受けた足利義兼らが渡良瀬川に陣営取り、基綱は親族の小山朝政と結び、志田義広の軍勢と野木宮で戦いこれを撃破し、本宗家の足利俊綱と子の忠綱を敗走させた(野木宮合戦)。

分家である基綱は、父・有綱と共に早くから源氏に味方し、源頼朝の元で鎌倉幕府御家人の地位を得、それ以降、基綱は鎌倉幕府の御家人として勢力を拡大維持した。

承久3年1222年承久の乱にも参戦し、その戦功で淡路国(兵庫県)に所領を得たという。




■ 鎧兜「避来矢」の伝説


佐野氏には「避来矢(ひらいし)」という藤原秀郷ゆかりの鎧(よろい)兜(かぶと)伝説が残っている。「避来矢」は、飛んでくる矢が当たらないという伝説を持つ。

源平合戦前は「真経腹巻之具足」と呼ばれており、源平合戦では足利忠綱の逸話にも登場する。(No.27参照

藤姓足利氏が没落した後は佐野氏が伝承してきた。

江戸時代の火災で鎧の一部だけが焼け残ったが、佐野氏は大切に保管し続け、国指定重要文化財に指定されている。

金具だけになった武具をあがめた佐野氏は、秀郷の子孫であることを強く意識していたようだ。




※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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