佐野宗綱 さの むねつな
No. 59
【佐野宗綱】
さの むねつな
Sano Munetsuna
佐野氏第十六代当主で唐沢山城主。戦国の群雄割拠の世の中で、父・佐野昌綱の方針を継承し、反上杉を貫き通した。
【別称・通称】小太郎/修理進
【官位】但馬守
【生年】永禄3年(1560年)
【没年】天正13年(1585年)
【時代】戦国時代〜安土桃山時代
【氏族・血族】秀郷流佐野氏
【在所・所領】下野国佐野
【墓所】栃木市皆川城内町金剛寺
【由縁の場所】唐沢山神社(唐沢山城址)
【家系・系譜】
父:佐野昌綱
兄弟:桐生親綱
子:氏忠(養子)
佐野宗綱は、佐野氏第十六代当主で唐沢山城主。
父の昌綱が死ぬと、数度にわたる上杉謙信の攻撃を受けるが、宗綱の策と居城である唐沢山城の堅固な城郭が防ぎきった。
■佐野宗綱と鉄砲
鉄砲の持つ有効性を早くから見抜いていたらしく、鉄砲の供出を支配下に申し渡すなど、当時の東国では遅れていた鉄砲を推奨するなど、有効で革新的な政策を打ち出したという。
はじめは北条氏と手を組んでいたが、後にその北条氏との同盟を破棄して常陸国(現・茨城県)の佐竹氏と手を結び、共に北条氏と戦ったりもした。
武田氏と争った滝川一益が上野国に進出すると、一時的に一益に従ったりもした。
天正13年1585年、北条方の長尾顕長との戦において敵の挑発に乗り、一人騎乗で突出して戦い、自らその有効性を見抜いていた鉄砲で討ち取られたといわれている。
■北条氏によって唐沢山城を占拠される
宗綱には子に男子がいなかったので、叔父(弟?)の天徳寺宝衍(てんとくじほうえん 佐野房綱)などの佐竹氏派と北条氏派に分かれて対立したが、これを知った北条氏は、その機に乗じて唐沢山城を占拠してしまった。
佐野氏は北条氏から北条氏忠を養嗣子として受け入れ、第十七代当主・佐野氏忠として佐野家を継がせた。
■唐沢山城について
関東七名城の一つ。
佐野市街北方の標高247mの唐沢山山頂を本丸として、その一帯に曲輪を配置した山城。
堅固な作りで、戦国時代に上杉謙信の攻撃を10度にわたり受けたが、撃退して謙信を悩ませた。
古城には珍しく高い石垣が築かれ跡があり、他にも、大手枡形、土塁、堀切、土橋、などの跡が、しっかりと残っている。
現在、唐沢山城址の本丸跡には、築城主と伝えられる藤原秀郷を祀る唐澤山神社がある。
山頂から南を見渡せば、関東平野を広く東西から南方へ一望でき、その要衝としての位置関係が今でも明確に感じられる。
☆【ブログ】唐沢山城跡「唐澤山神社」へ行ってみた!
(下の画像をクリックしてご覧ください♪)
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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