〈鎌倉殿の13人〉特別コラム「曽我兄弟の仇討ちの謎」編
【武士にとって「仇討ち」とは?】
武士の世は戦の時代でもある。
戦があれば、当然勝者と敗者がいる。
勝ち負けは正悪で決まるものではないから、その勝敗には「恨み」が存在する。「恨み」があれば、そこに遺恨が生まれ再び対立する。
その対立の一つが「仇討ち(あだうち)」である。「敵討ち(かたきうち)」とも言う。
これら仇討ち(敵討ち)事件は、親や主君を殺害した者に対して私刑として復讐を行った日本の制度で、武士が出現した中世の頃に生まれ、その血族意識から起こった風俗として広く見られるようになった。江戸時代には、幕府によって法制化されることでその形式が完成され、犯罪を取り締まる警察権の範囲を補う制度として運用されてきた。
殺人事件の加害者は、原則として公権力(幕府・藩)が処罰することとなっていた。
しかし、加害者が行方不明になり、公権力がこれを処罰できない場合には、被害者の関係者に処罰を委託する形式をとることで、仇討ちや敵討ちが認められた。
日本史上最古の仇討事件として記録されているものとしては、安康(あんこう)天皇3年456年に起きた「眉輪王(まよわのおおきみ)の変」がある。仁徳天皇の孫である眉輪王が、父の仇である義理の父・安康天皇を討った、という仇討ち事件で、「日本書紀」14巻雄略紀の冒頭ページに書かれている。何かギリシャ神話に出てくる人間模様のような話だが、そんな太古の時代から、日本では仇討ちが制度として存在していたのである。
仇討ちは、必ずしも全てがうまくいったとはいえない。創作された劇中においても、苦節の末に、討ち手はようやく本懐を遂げる、という展開になっている話が多い。
しかし、事件後にその経緯を聞いた大衆にとっては、仇討ちをせざるを得なかった弱者への同情や応援の気持ち、そしてその大願を成就させた嬉しさや快感を共有することで、権力や悪に対して鬱憤をはらす爽快さを見出すことができるのだろう。
【「一富士、二鷹、三茄子」は本当に三大縁起物なのか?】
新年最初に見る初夢に三つの縁起物が出ると、その年はいい年になるといわれる。
その縁起物とは、「一富士、二鷹、三茄子」(いちふじ、にたか、さんなすび)のことで、これらは初夢に限らず、様々な生活シーンで縁起物といわれている。 では、なぜこの三つが縁起物といわれるのか。 実は、この三つの縁起物は、本願を成就した「三大仇討ち事件」を象徴するものなのである。
後世いろいろな作品にも取り入れられた実際の事件で、「仇討ち」としては知っている人もいるだろうが、人気を集めたこの三つの敵討ちが、縁起物の人気アイテムとして伝わってい ることがポイントである。
一つ目の「富士山」。
これは、曾我祐成(そが すけなり・十郎)と時致(ときむね・五郎)兄弟が、父親の敵・工藤祐経(くどう すけつね)を討った「曾我兄弟の仇討ち」が、富士の裾野で行われた源頼朝の巻狩(鷹狩り)の際に実行されたことに由来する。
二つ目の「鷹」。
ご存知「赤穂浪士の討ち入り」事件のことで、家老の大市内蔵助を中心に、無事主君の仇を討った。その主君・赤穂藩浅野内匠頭の家紋が「鷹の羽」であったことに由来する。
三つ目の「茄子」。
元岡山藩士の渡辺数馬と剣豪荒木又右衛門が数馬の弟の仇、河合又五郎を伊賀上野鍵屋の辻で討った「伊賀越えの仇討ち」が由来で、「茄子」の産地である伊賀で大願を“成す”に至った、というおめでたい「茄子」が元になった。
これらは「三大仇討ち」と呼ばれ、全てが仇討ちの大願を成就しためでたい話なのである。
そして、それぞれが歌舞伎、芸能や文学などにおいて、多くの新しい物語を生み出す源流となるなど、現代にまで長く伝えられてきた。登場人物それぞれをめぐる個別の物語や、本筋から派生した別筋の物語なども作られて、作品数も多い。
事実も物語も、「仇討ち」は面白いのである。
【鎌倉殿にとって「曽我兄弟の仇討ち」とは?】
建久4年1193年に実際に起こったと言われる「曽我兄弟の仇討ち」事件は、江戸時代から人気の読み物「曽我物語」や歌舞伎狂言「曽我対面」に描かれている「曽我兄弟の仇討ち」事件は、先述の初夢三大縁起物と言われるほどの日本人好みの美談だが、では「曽我兄弟の仇討ち」とはどんな事件だったのだろうか?
まだ鎌倉幕府がその形を表す以前のこと。伊豆地方の実力者である伊東祐親は、策を以って親戚である工藤祐経の領地を我が物にしてしまった。祐親に代々の領地を奪われ、恨みに思った工藤祐経は祐親を殺そうとするがなかなか果たせない。その代わりというわけではないが、一連の復讐の中で祐親の息子の河津祐泰が殺され、祐泰の妻と幼い息子二人が残された。祐泰の妻は息子たちを連れて曽我祐信という武士と再婚、息子たちの苗字は曽我へと変わる。だから、伊東祐親の孫だが「曽我兄弟」と呼ばれることになるのだ。
成長した曽我兄弟は、父を殺した工藤祐経を敵と恨み、仇討ちを決意する。しかし、工藤祐経は、鎌倉殿と呼ばれるようになった頼朝の重臣になっていた。ならば、と曽我兄弟も祐経を討つべく縁を頼りに頼朝の配下になって、仇討ちの機会を狙う。
その仇討ちのチャンスになったのが、頼朝が富士の裾野で行った巻狩りで、その最中に見事「曽我兄弟」は本懐を遂げた。これだけを見ると、仇討ちの本懐を無事遂げて、めでたし、めでたし、となるわけだが、その本筋をよく見てみると、この仇討ちは、源頼朝を狙った政治クーデターだったのではないか、ともいわれているのだ。
なぜか?
記録によると、討った曽我時致(ときむね)は、頼朝の宿所にも押し入っているからである。
工藤祐経への仇討ちは表向きで、その実は頼朝狙いだったという見方もできるのだ。
クーデターとすれば、その黒幕は誰だろう?
よく言われるのは北条時政で、当時勢力を伸ばしてきた梶原景時や比企能員を、謀略をもって滅ぼしたりもしている。時政は、鎌倉武士有数の策略家であるから、そういうことをやりかねないのだ。
「曽我兄弟の仇討ち」は、それほど謀略に満ちた鎌倉時代を象徴する一大事だったといえるだろう。
【大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の中の「曽我兄弟の仇討ち」】
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には、この「仇討ち」に繋がる伏線が登場していた。
一つは、ドラマが始まってすぐの頃、後に曽我兄弟の敵(かたき)として討たれることになる工藤祐経が、主人公・北条義時の母方の祖父・伊東祐親に「私の代々の領地を返して欲しい」と訴えるシーンがあった。これが、後の「曽我兄弟の仇討ち」に繋がる伏線である。果たしてどのように仇を討つのか・・・?
もう一つの伏線が、木曾義高の話である。
義高の父・木曽義仲は、源頼朝の従兄弟で本姓は源義仲、源氏同門のライバルであった。共に平家打倒に立ち上がったが、最終的には多くの武士たちの支持を受けられず、頼朝に討たれた。
義仲の嫡男・義高は、若くして頼朝の元に人質として囲われ、頼朝の娘・大姫と婚約した。
その婚約者の父が、自分の父を討った。ここが重要点である。
大河ドラマでは、義高が父を討った頼朝に対して恨む心境を話すシーンや、逆に頼朝が父・義朝を平家に殺された怒りを持ち続けたという思いを話すシーンがあったが、武士の世界は戦いの世界、やはり「恨み」や「仇は生涯忘れない」という武士の感情が主役なのだと思わざるを得ない。そしてそれが、「曽我兄弟の仇討ち」にも共通する武士の心情=信条なのかもしれない。
歴史の展開には、それにプラスしていろいろな陰謀や見えない戦いが存在する。
なかなかに多重構造の世界であり、特に鎌倉時代はそういう時代なのである。
だから歴史は面白いのだ。
2022年6月11日
文 岡田 康男
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