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平 清盛 たいら の きよもり


No.10


【平 清盛】

たいら の きよもり 

Taira no Kiyomori


坂東で武士の政権体制を成立させる基盤を築いた。厳密には坂東武士ではないが、その後の平氏を隆盛へと導いた。



【別称】平大相国/六波羅殿/福原殿/清盛入道/浄海(戒名)

【官位】従一位/太政大臣

【生年】永久6年(1118年)

【没年】治承5年(1181年)

【時代】平安時代末期

【氏族】桓武平氏維衡流坂東平氏系伊勢平氏

【所領】?

【墓所】兵庫県兵庫区 能福寺、六波羅蜜寺、祇王寺

【由縁の場所】京都/六波羅蜜寺/福原/屋島/壇ノ浦 


【家系】

父:平忠盛(一説:白河院) 

母: 白河院女房(祇園女御の妹) 

義母:池禅尼

妻:高階基章の娘(正室)、平時子(二位尼)、常盤御前?(側室)

子: 重盛、基盛、宗盛、知盛、徳子、盛子、重衡、維俊 その他



歴史的人物としては超有名だが、その誕生から死に至るまで、事実・伝承共に波乱万丈でミステリアスな人物として興味深い。



平清盛の生い立ち


父は平忠盛というのが定説だが、本当は白河法皇の落胤で、母は祇園女御またはその妹という説もある。『平家物語』では、白河法皇の寵愛をうけた祗園女御が産んだ子である、とされている。また、祗園女御の妹が産んだ子ともいわれ、母が急死して3歳の時に母が急死し、母の姉の祗園女御が育て、その後忠盛にひきとられたともいわれる。


平氏は、祖父の平正盛以来、時の院政と結びついて栄え、清盛も12歳で従五位下、左兵衛佐となったのを初として、順調に昇進。


長承元年1132年、清盛15歳の時、父忠盛が武士としてはじめて昇殿を許される。


保元元年1156年の保元の乱では源義朝と共に後白河天皇方につき、崇徳上皇方の源為義、平忠正らを討ち、勲功賞で播磨守を任じられた。


平治元年1159年の平治の乱では源義朝と戦って勝ち、名実ともに武士の長となり、平氏に対抗できる武士勢力はいなくなった。


仁安2年1167年、50歳の時に太政大臣となるが3ヶ月で辞任する。


仁安3年1168年、51歳の時熱病にかかり危篤となる。その後平癒して出家、法名・静海(浄海)を名乗る。




鹿ケ谷の陰謀

清盛は元来、軍事的、経済的に後白河上皇に奉仕し、その関係は親密で、清盛危篤の際、上皇は清盛と協議の上、高倉天皇を即位させた。高倉の母は清盛の妻時子の妹滋子(建春門院)である。


しかし、この頃から後白河と清盛は対立を始める。


理由としては、高倉の即位によって政権を確立した後白河が平氏の台頭を抑えようとしたこと。平氏が後白河の近臣の立場から脱皮しようとしたことが考えられる。


承安3年1173年大輪田泊(現神戸市)に港を開き、対宋貿易の拠点とする。このことは、清盛がもつ経済的に先進な貿易見識を示すものとして特筆できる。


治承元年1177年法皇の近臣が、鹿ケ谷で平氏打倒の謀議をこらしたことが発覚し、法皇と清盛との関係はさらに悪化した。これを「鹿ケ谷の陰謀」という。





清盛の最期


治承3年1179年清盛は武力をもって後白河上皇を鳥羽殿に幽閉、国政の実権は清盛が握った。しかし平氏に対する不満が高まり、後白河の皇子で高倉との皇位争いに敗れた以仁王(もちひとおう)が源氏に呼びかけて挙兵し、しだいに全国的な内乱へと展開、源平の争乱がはじまった。


清盛は、政権巻き返しをはかるため、後白河法皇、高倉上皇、安徳天皇を伴い福原に移った(福原遷都)。しかし、この遷都はうまくいかず、息子の宗盛なども京都に帰ることを主張していたという。延暦寺も遷都に反対、その結果、突如「一人も福原に残るべからず」と宣し、後白河法皇をはじめ安徳天皇や平氏一門も京に戻った。


清盛が何故遷都したのかは分かっていない。延暦寺からの圧迫を避けるために行ったものではないかともいわれているが、 結局、延暦寺の力によって都を戻すことになるが、この行動は平氏の威信を下げる結果となってしまった。


その後清盛は、平氏に抗する東大寺・興福寺を焼き討ちするなど独裁的な政策をとったが中々安定せず、政局不安定の中に没した。


清盛の没後、後継者の宗盛は政権を後白河に返還し、清盛の実権は約400日で幕を引くことになった。




※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。



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