平貞盛 たいら の さだもり
No.3
【平貞盛】
たいら の さだもり
Taira no Sadamori
平氏の直系一人で、一族内の勢力争いの中で従兄弟の平将門と対立した。義理の叔父の藤原秀郷の協力で将門を倒した。
【別称】平将軍 常平太
【生年】不明(920年頃?)
【没年】永祚元年10月15日 (989年)
【氏族・血族】桓武平氏国香流(坂東平氏)(桓武天皇五世の孫)
【在位・官位】鎮守府将軍 常陸大掾 従四位下
【家系・系譜】
父=平国香
母=藤原村雄娘
兄弟=貞盛 繁盛 兼任 男子
妻=関口貞信娘
子=維将 維敏 維衡 養子=維叙 維幹 維茂 維時 維輔
平氏の姓を授けられた高望王の長男平国香(たいらのくにか)の直系という恵まれた環境で育った。
桓武天皇→葛原親王→高望王(平氏始祖)→平国香→平貞盛
藤原秀郷は母方の叔父にあたり、平将門は同系の従兄弟にあたる。
貴族的な優美さと若武者の豪胆で勇壮な面を併せ持っていたと言われる。
■平貞盛の概要
承平5年935年、貞盛が左馬允として京に赴任中、従兄弟の平将門と母方の叔父・源護たちとの抗争が起き、父の国香がそれに巻き込まれて亡くなるという事件が起きた。それらを聞いた貞盛は、朝廷に休みを請いて急遽帰国。焼けた館から父国香の遺体を探し出し、山中に退避した妻や母などの家族を探し出した。
この時貞盛は、そもそもことの発端は、叔父の源護(みなもとのまもる)たちが従兄弟の将門を待ち伏せ攻撃したことが発端であって、将門側に非はなく、将門らと「互いに親睦をはかるのが最良の解決策」と穏便に納めた。その後まもなく、貞盛は父の後継として常陸大掾に任官された。
しかし、将門らの争いに叔父の良兼、良正らが介入、実際に将門が国香を死に至らしめたという事実もあり、良兼に説得されて、将門を攻める際にはこれに加って将門と対立することとなった。
■平貞盛と平将門の乱の繋がり
抗争は次第に将門有利に進展していき、良兼らの勢力は徐々に衰退していく。
承平8年938年貞盛は、事を納めるため密かに上洛を企てるも、これを察知した将門に追いつかれ、戦ったが敗れ、何とか京の都に辿り着き、将門追捕の官符を持って帰国したが将門には反発される。
天慶2年(939年)には叔父良兼が病没し、一族の後ろ盾を失う。
同年、陸奥守平維扶が赴任途中に下野国に入ると、これに従って陸奥に入らんとしたが、再び将門の追撃を受けた為に逃げ帰った。常陸国での紛争を利用して将門を討たんとするがまたしても失敗。
天慶2年12月には将門が「新皇」を宣言する。
天慶3年940年、将門が、常陸国北部で貞盛、為憲らの捜索が行なわれるも当人らは発見出来ず、貞盛の妻らが捕らえられたが、将門は彼女らを放免して捜索を中断し兵を各地に帰した。これを知った貞盛らは、母方の叔父の藤原秀郷の協力を得て兵を集めると将門を攻め、迎撃に来た将門勢を破り、2月14日「北山の決戦」にて、ついにこれを討ち取った。
■平将門の乱後
将門討伐後の論功行賞では、将門ら謀反人を討つことができたのも、多年の苦難を経て努力した貞盛の為すところも大きいとして、従五位上(正五位上とも)に叙せられた。
後に鎮守府将軍となり丹波守や陸奥守を歴任、従四位下に叙せられ「平将軍」と称した。
後年、藤原秀郷らとともに武士の始まりの名将として長く伝えられる。
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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