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天徳寺宝衍(佐野房綱)


No. 66


天徳寺宝衍

てんとくじほうえん

Tentokuji Houen



高い教養と人脈を持つ僧として諸国をめぐり、貴族や宣教師とも交流。織田信長、豊臣秀吉の関東進出にも貢献した。



【実名】佐野房綱(さのふさつな)

【別名】天徳寺宝衍(てんとくじほうえん)、天徳寺了伯(てんとくじりょうはく)

【官位】修理大夫

【生年】永禄元年(1558年)

【没年】慶長6年(1601年)7月2日

【時代】戦国時代〜江戸時代初期

【氏族・血族】藤原北家秀郷流 佐野氏

【在所・所領】野国佐野

【主君】佐野昌綱→宗綱→織田信長→佐野宗綱→豊臣秀吉→徳川家康

【墓所】報恩寺(栃木県佐野市山形町1178 )

【家系・系譜】

父母:父:佐野豊綱 母:不祥

兄弟:昌綱、房綱、祐願寺(遊願寺)

子:女(佐野信吉正室)、養子:佐野信吉(富田信種)



房綱本人のものと思われる大半の書状には「宝衍」と記されているが、「唐沢城老談記」「唐沢軍談」などには「了伯」と記されている。

佐野氏の十八代目を継承後に「房綱」を名乗ったといわれる。




■佐野氏の外交担当


永禄元年(1558年)、下野国の戦国大名・佐野氏第十四代当主・佐野豊綱(一説には佐野泰綱とも)の子として生まれた。

はじめは兄である第十五代当主・佐野昌綱に仕えた。昌綱には「天徳寺(房綱)」と「遊願寺」という二人の弟がおり、両人は諸国を周り武者修行を行ったという。

遊願寺は武田信玄や上杉謙信に召し抱えられたが、後に直江山城守に謀殺されたと伝わる。

房綱もまた、武田信玄、上杉謙信に面会したが、その厳しい威に打たれて対面できなかったと伝わる。


天正年間の前期、第十六代当主佐野宗綱の代に出奔し、織田信長に仕えたといわれる。ただし、天正5年(1577年)に上杉謙信の家臣・蓼沼日向守に書状を送ったり、その後も北条氏、佐竹氏や結城氏との外交文書のやり取りを交わしており、宗綱の下で佐野氏の外交を担っていたとする説もある。


天正10年(1582年)、甲斐武田氏滅亡により上野国に織田氏家臣の滝川一益が入国すると、同年4月これに同行、同年6月2日、本能寺の変が起こり一益が伊勢へ脱出すると、房綱は宗綱の元に戻り、これを補佐した。



■豊臣秀吉に仕える



天正13年(1585年)元旦、嫡子のいない当主・宗綱が長尾顕長に敗れ討死すると、佐野家安泰のために、北条氏康の六男、氏忠を養嗣子に迎えて家督を継がせようという意見があったが、これに対し房綱は佐竹義重の息子を迎えることを主張し、山上道及らと共に佐竹派を形成した。この過程で道及は上洛、天正14年(1586年)5月25日に羽柴秀吉から惣無事令を入手、使者として奥州、関東の領主の元に使者として赴いていた。

この1年余りの対立後、北条氏はなおも佐野攻めを行い、11月10日には北条氏忠が正式に佐野氏を継承し、宝衍・道及は佐野家を出奔し中央に出て秀吉に仕えた。


天正18年(1590年)、秀吉から関東の詳細図の作成を命ぜられると、房綱は山上道及らと共に作成、加藤清正に提出した。

豊臣氏による小田原征伐がおこると、房綱は秀吉らの関東入りを案内したという。

天正18年(1590年)6月からは、石田三成のもと忍城(武蔵)の水攻めに加わった。

同年7月5日の小田原城落城後、豊臣秀吉が奥州平定のため下野に寄った時(宇都宮仕置)に同道した。


北条氏の降伏後、房綱は秀吉から佐野氏の名代に任ぜられ、佐野氏忠(養子の北条氏忠)の領地である3万9,000石の所領及び家督を事実上継ぐことを許された。

唐沢山城に入ると、房綱には子がいなかったため秀吉の家臣・富田信高の弟に当たる信種を養嗣子として迎え、約束の期限である天正20年(1592年)9月22日に信吉(信種が改名)に家督を譲り、自らは隠居した。


慶長6年(1601年)、死去。



■宣教師との交流



天正15年1587年、京都で宣教師ルイス・フロイスと面会、フロイスの『日本史』では、「天徳寺と称する坂東の一人の貴人が3、4度、司祭を訪ねて来た。彼は思慮分別のある人物で、今なお繁栄している坂東随一の大学、足利学校の第一人者であった。知識欲が旺盛なためにヨーロッパの諸事ならびに我らの教えについて質問し、」と描かれている。



■謎多き人物像



経歴は謎が多いが、高い教養と向学心、関東の武将たちや京の貴族や高僧との深い交際など、底知れぬ面白さを持った人物であった。その人脈形成に有効だったのが、「西の芦屋に、東の天明」と呼ばれた「天明鋳物」の茶道具だったといわれ、佐野には京都も繋がる確かな文化が根付いていたようである。

剣豪・塚原卜伝(ぼくでん)に剣術指南を受けたとの伝承も残る。

佐野の唐沢山城跡(唐澤山神社)の天徳寺丸は、天徳寺宝衍の館跡といわれている。



※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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