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山内尼 やまのうちのあま


No. 64


山内尼

やまのうちのあま 

Yamanouti no Ama



源頼朝亡き後の鎌倉幕府を父の北条時政とともにまとめあげ、その後の武士社会の基盤を築いた尼将軍と呼ばれる女傑。



【生年】不詳

【没年】不詳 平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。

【時代】平安時代末期から鎌倉時代初期

【家系・系譜】

夫:山内首藤俊通

子:経俊



■源頼朝の不遇時代を支えた乳母


藤原秀郷直系である藤原北家秀郷流の名門武家山内首藤俊通の正室。

後年、頼朝に仕える山内首藤経俊の母。

頼朝の幼年期を支えた乳母の一人。



■藤原秀郷の子孫、名門山内氏


山内氏は、源頼朝の祖父・為義に長く仕えた源氏の家臣で、始祖の首藤資通(すけみち)は、為義の乳母父を務めた。その縁で、山内尼は為義の孫頼朝の乳母を務める。山内尼の夫俊通と子の俊綱は、平治の乱で源義朝に従い討ち死にした。

「主馬首(しゅめのかみ=馬や馬具を管理する役目)の藤原氏」の意の首藤氏が、始祖の山内俊通の代になって鎌倉山内の庄を領した際に山内首藤を名乗るようになったといわれる。



■子の経俊が頼朝と対立。しかし・・・


治承4年1180年、以仁王の令旨で挙兵した頼朝は、かつて源氏に従った坂東武士に呼びかけるが、山内尼の子の経俊は、頼朝へ仕えるのを拒否し暴言を吐き、石橋山の戦いでは平家方に付いて頼朝に直接矢を向け射ってしまう。頼朝軍に敗れた経俊は捕らえられ、斬罪に処せられることになった。

それを伝え聞いた母の山内尼は、鎌倉の頼朝を訪れ、代々源氏の家人であった山内家の祖先の功を訴え、経俊の助命を求めた。頼朝は無言で、石橋山の戦いで自ら着ていた鎧を持ってこさせ、鎧に刺さった矢に示されていた経俊の名を示した。それを見た山内尼は、涙ながらに立ち去ったという。



■後年は頼朝配下の重臣として活躍


しかしその後、子の山内首藤経俊は、老母山内尼の悲歎を汲んで経俊は助命され、御家人として頼朝

に従うことが許され、伊勢と伊賀守護になる厚遇を受けたという。



※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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