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その9 天徳治宝衍 秀吉の天下統一先導した佐野出身の外交僧

その9 天徳治宝衍 秀吉の天下統一先導した佐野出身の外交僧

水野先生の短編コラム

当会顧問の水野拓昌先生にコラムを書いていただきました!

 

栃木県佐野市を拠点とした佐野氏は藤原秀郷の子孫の中でも、秀郷の本拠地で栄えた直系意識の強い一族です。栃木県立博物館テーマ展『藤原秀郷とその末裔たち』(2025年2月22日~3月30日)で肖像画(複製)が展示されている佐野昌綱は、上杉謙信を相手に唐沢山城攻防戦を繰り返した戦国時代の城主です。

この肖像画は狩野永徳の父・狩野松栄(しょうえい)が描き、上部の文章も京・五山の高僧が書きました。こうした京の大物に肖像画が依頼できたのは佐野昌綱の弟・天徳寺宝衍(てんとくじ・ほうえん)の人脈、外交力があればこそ。一般的な知名度はまだまだ低いですが、天徳寺宝衍は戦国時代の関東で第一級の重要人物です。


 

小田原征伐では関東諸将と交渉

 

天徳寺宝衍の実名は佐野房綱ですが、この名乗りは短期間。実家・佐野氏の外交僧として1560年代から北条氏、上杉氏の書状や武田氏の軍学書『甲陽軍鑑』に「天徳寺」の名が登場し、大物の間を渡り歩いていたことが想像できます。さらに兵法家・塚原卜伝に剣術指南を受けたという伝承があり、僧侶ながら剣豪だったようです。

そして、織田信長、豊臣秀吉が関東へ進出する際には関東諸将との連絡に奔走。1582年(天正10年)、信長の配下に入るよう関東諸将と信長の重臣・滝川一益との連絡役を果たしています。この時はすぐに本能寺の変が起きてしまい、滝川一益は関東から撤退、北条氏が関東支配に乗り出しましたが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原征伐でも、天徳寺宝衍が秀吉の幕僚として活動。秀吉も「細かいことは天徳寺と石田三成に聞いてくれ」といった書状を送っており、天徳寺宝衍を信頼して交渉を任せていたようです。

ただ、小田原城落城後、忍城(埼玉県行田市)での成田氏攻めでは「東国無双の美女」との評判があった甲斐姫の奮戦に天徳寺率いる佐野勢が大敗。『成田記』には、ねずみ色の頭巾に、鎧の上に紫の法衣をまとい、両手に水晶の数珠やサンゴの如意棒を持った天徳寺の姿が書かれています。



 

幅広い人脈と底知れぬ向学心

 

天徳寺宝衍の魅力は何といっても行動範囲の広さ、人脈の深さ、そして底知れる好奇心・向学心の深さです。貴族・山科言継(やましな・ときつぐ)の日記『言継卿記』、1548年(天文17年)や1550年(天文19年)の記事に登場する「下野天徳寺」は名門貴族の蹴鞠に参加したり、親王が書写した藤原定家の歌論集を借り受けたりしています。

また、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』によると、1587年(天正15年)、天徳寺宝衍はフロイスに会い、ヨーロッパやキリスト教について熱心に質問。フロイスを感心させています。『日本史』では、天徳寺は足利学校の優等生であり、「坂東の貴人」と紹介され、秀吉との関係も強調されています。

晩年は秀吉の話し相手、御伽衆(おとぎしゅう)を務めていますが、博識ぶりが評価されていたのかもしれません。




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