

【会員活動報告】宇都宮の奥州街道を歩いてみた!
2026年6月12日 栃木の武将藤原秀郷をヒーローにする会 専務理事 岡田康男 宇都宮の奥州街道を歩いてみた! 宇都宮が関東の重要拠点であったといわれる訳の一つ、それは・・・ 江戸時代に定められた主要幹線道「五街道」の内二つの街道「日光街道」と「奥州街道」が通っている珍しい街であるということで、それだけみても重要な町であり地域だったことがわかる。 ということで、今回は、われらがヒーロー「藤原秀郷」とは直接的には関連ないが、秀郷などから生まれたその後に続く武士の時代の約600数十年後の江戸時代初期、重要な都市であった宇都宮の街なかを貫く「奥州街道」を歩いてみようと思う。 ●まずは五街道について(※当時は「街道」ではなく「道中」といった) 江戸時代はじめの1601年(慶長6年)、徳川家康が整備し始め、二代将軍秀忠の時代に基幹街道として定められた五つの街道。江戸・日本橋(または江戸城大手門)を起点に地方へ向かった「東海道」「日光道中」「奥州道中」「中山道」「甲州道中」の五つの陸上幹線道のこと。1716年(享保元年)五街道の正式名称が定められた。 ▶︎


【会員活動報告】藤原秀郷流を訪ねて《12》
2026年6月12日 栃木の武将藤原秀郷をヒーローにする会 佐野支部 永島正光 会津阿弥陀寺と南摩綱紀 今年も会津鶴ヶ城にやって来た。凄腕ガイドさんに案内されてバッチリ3時間のはずだったが、1時間で終了「あれ?」。さてどうしましょう? みんな思い思いに散っていく、「鶴ヶ城から移築した三重櫓がある阿弥陀寺へ行ってみる?」 仲良し三人組、いつものYちゃんと賑やかKさん、ついでだから大正レトロ、七日町通りをチラ見。新撰組ショップ、駅カフェに立ち寄り阿弥陀寺へ。 会津鶴ヶ城 「おっ、ここだね」なにやら石碑がいっぱいある。奥に行くと1874年(明治7)に鶴ヶ城から移転されたレトロ三重櫓が見えてきた。「密会所?だったらしいけど、どの辺りにあったのかなぁ~」、「茶室の辺りだったらしいよ」二人の会話をよそに石碑が気になってしょうがない私。 藤田五郎って誰、斎藤一だね、明治まで生きた数少ない新撰組の三番隊長だ。それから、萱野長修(権兵衛)。確か、大河ドラマ「八重の桜」では柳沢慎吾が演じていた会津藩の家老、主君松平容保(かたもり)をかばい責任をとり自害したと言う。石


第17回 藤原秀郷 交流会『歴史カフェ』2026年6月20日開催
今回の交流会は、「藤原秀郷に続いた東国武将たち」をテーマに、宇都宮二荒山神社の由緒書を読み解きながら、東国武士たちが受け継いだ“武の祈り”と、宇都宮という土地、そして藤原秀郷が果たした歴史的役割を探りました。 「神社に行ったら読むけれど、なかなか頭に入らない……」 そう、神社の「由緒書き(ゆいしょがき)」には難しい言葉が並んでいて、スムーズに読み解くのは一苦労ですよね... 下野一の宮(しもつけいちのみや)である「宇都宮二荒山神社」に祀られている神様は、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)。 名前からして少し難解ですが、第10代・崇神(すじん)天皇の第一皇子で、東国を治めた「戦いの神」とされています。 実は、源頼朝の奥州征伐(1189年)までは、栃木より北の地はまだ朝廷の支配が十分に及んでいない地域でした。そのため、頼朝も奥州征伐に向かう際には、宇都宮二荒山神社で戦勝祈願を行っています。 ただ、頼朝よりも前に、武士の誉れと称される「八幡太郎義家(源義家)」、そして我らが『藤原秀郷(ふじわらのひでさと)』による戦勝祈願が先立ってありました。秀


佐野昌綱 さのまさつな
No. 67 【佐野昌綱】 さの まさつな Sano Masatsuna 唐沢山城を拠点に、上杉謙信や後北条氏という二大勢力の狭間で巧みな外交と驚異的な粘り強さを発揮した戦国武将。度重なる巨大勢力の侵攻を受けながらも、本領を維持し、佐野氏の独立性を守り抜いた。 【別称】小太郎 【時代】戦国時代〜安土桃山時代 【生誕】享禄2年1529年 【死没】天正2年4月8日1574年 【墓所】栃木県佐野市 本光寺 【官位】不明 【氏族・血族】秀郷流佐野氏 【在所・所領】下野国佐野 【由縁の場所】唐沢山神社(唐沢山城址) 【家系・系譜】 父:佐野泰綱 兄弟:豊綱、房綱、祐願寺 子:宗綱、桐生親綱、虎房丸、正慶 ■上杉謙信を悩ませた唐沢山城の名将 佐野昌綱(さの まさつな)は、藤原秀郷の流れをくむ佐野氏第15代当主であり、戦国時代の唐沢山城主です。 昌綱の名を語る上で欠かせないのが、「越後の虎」上杉謙信との攻防です。 一般には、1559年(永禄2年)、北条氏政の大軍に包囲された昌綱を救うため、上杉謙信が少数の兵で敵中を突破したという逸話が知られています。しか


【会員活動報告】藤原秀郷流を訪ねて《11》
2026年5月18日 栃木の武将藤原秀郷をヒーローにする会 佐野支部 永島正光 新緑の向羽黒山城と信夫佐藤氏 北関東山城会、福島会津オフ会メインは向羽黒山城。 実は私四度目、しかしデカ過ぎて未だによくわからない。 今回も凄腕ガイドさん?あっ、昨年と同じ人だ。 のぼり旗には「最大……級」とあるが……「最大と言い切るとクレームが来る恐れがありそうで…」とガイドさんは苦笑い。 続いてガイドさんは挨拶の中で、更新されない通説にチクリチクリと苦言を呈し、最新情報+持論を展開する。気合い十分、素晴らしい。 例によって総勢14人、最初は遠足並にぞろぞろと進むが……間もく、そう、放し飼いの如くはじけて、収拾がつかなくなる。いつものことなのてすが…。 こちらウンチク組みの仲良し三人、私と、なんでなんでのYちゃん、裏付け理論派のAさん。 この城は1561年(永禄4)蘆名盛氏創建と言われていますが……。 Y「なんで、堀も土塁も何本も作り、しかも丁字にぶつかり、迷路みたい」 A「あのね、盛氏君は心配性なんだよ」 Y「土塁の片側にだけ土留めの石垣、これどう言う意味?」..


【亀戸香取神社 勝矢祭/烏森神社 例大祭】2026年5月5日参拝レポート
藤原秀郷の伝説は栃木にとどまらず、東京にも深く根付いています。自らを新皇と称し、関東一円に勢力を広げ、朝廷に対抗した平将門の乱を平定した英雄として知られ、亀戸香取神社や新橋烏森神社などでは、いまも勝運の神として信仰されています。今回は、いずれも五月五日・端午の節句に開催される祭礼を通じて、秀郷の歴史が今も東京の人々に受け継がれていることを実感しました。 香取神社 勝矢祭 勝矢祭は平安時代、藤原秀郷が平将門の乱の出陣前に戦勝を祈願し、勝利の後に自らの弓矢を「勝矢」として奉納した故事に由来します。例大祭では、鎧武者行列が街を練り歩き、神社到着後に「エイエイオー」と勝ちどきを上げ「勝矢奉納」の儀式が行われます。千年の時を超え、武者行列が令和の街を進む姿は勝運を呼ぶ初夏の風物詩。インバウンド客も多く訪れ、国際的な賑わいを見せていました。 今年の追討使「秀郷役」は、かわいらしい女性秀郷。 大久保江東区区長さんでした。 約200人の色とりどりの鎧武者が練り歩く祭礼は迫力満点。大人から子どもまで多くの人で賑わい、秀郷公への敬意と誇りが感じられる光景でした。武者


























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